創価学会の私と無宗教の彼

学会3世・活動家だった私。元恋人に影響され、無宗教になりました。

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皆さんこんにちは!
今回は前回の記事へコメントしてくださいました
たまさんからの提案で、『なぜ「脱会者は地獄に落ちる!!」のか』
というテーマについて皆さんで意見交換したいなと思います。
コメントできる方はして下さると非常に嬉しいです!

まず、ここで意見交換しようとしている前に明確にしなければならない、
また方向性を一つに絞らないといけない点があります。
それは、

地獄とは、現世でのことをいうのか、死後の世界のことをいうのか

です。
現世での地獄とは、例えば生きている時に借金地獄になったり
交通事故にあったり、その人の生きている環境が地獄のような
苦しみになるということです。
死後の世界での地獄というのは、一般人がすぐ想像する
生きていた時に何か悪いことをして、死んだ後苦しみの地獄へ
強制連行される、というものです。

どちらの地獄で意見交換するのかを決めなくてはなりません。
また、その両方を言っているのか、です。

以前の記事で地獄や仏罰については触れています。
(『地獄へ落ちる!?』『仏罰は果たして存在するのか』など)

今回は仏罰に注目して、
『現世(今生きているこの世界)での地獄』
として意見交換をしたいと思います。


なので、テーマとしては、

『創価学会脱会者は果たしてその脱会行為により
 現世での生活が地獄のようになってしまうか、否か』

というテーマに絞りたいと思います。

では、前置きが長くなってしまいましたが、
私の意見を書きたいと思います。

********************
<管理人:キヨの意見>

私は、結論から言うと創価学会を脱会した行為によって
今生きている生活が地獄のように悪化してしまうとは思いません。
その脱会した行為が直接の原因になり生活に支障がでる、
とは考えにくいからです。

脱会者は地獄に落ちる、としたら、
今まで脱会した膨大な学会員は一人残らず地獄の苦しみを
味わっていないとおかしいことになります。

しかし私の周りの脱会した方を見ると(ネットの知り合いも含めます)
そのような事例は見たことがありませんし、
実際私自身精神的に脱会していることになりますが
地獄へ落ちたなんて思ったことはありません。

ここで「地獄の苦しみ」がどのような基準であるかを
考えなくてはならないのですが、これは非常に難しいライン引きです。
ある人は恋人にフラれたことを地獄の苦しみだと言うかもしれませんが、
フラれたぐらいではそのように思わない人もいるかもしれません。

では、どう基準つけたらいいのか。
答えは簡単なのですが、自分が地獄と思ったら地獄である、
ということです。これは、他人のものさしで計れるものではありません。
なので、その人が地獄だと思っていないのに
「あの人はこういう結果になってしまった。仏罰だ。」と言うのには無理があります。
言われた側も自分は幸せなのにそんな風に言われてしまって迷惑です。

よって、

?今まで脱会した人全員が地獄の苦しみを味わっているとは思えない
?地獄の苦しみと決め付けるのには無理がある

という点から、
創価学会脱会者は果たしてその脱会行為により
現世での生活が地獄のようになってしまうか、否かということについては
脱会行為が直接の原因になって地獄の苦しみを味わう(仏罰)
ことは非常に考えにくい、という結論になります。

また付け加えると、私は仏罰について
「仏罰は自分の主観によって引き起こされるもの」
と考えているので、仏罰は思い込みだと考えています。
他の神秘的な力が働いて人に罰を下す、
こんなことは正直考えられません。
(詳しくは『仏罰は果たして存在するのか』をお読みください)

脳という物質が物理的な刺激などによって変化する点から、
(脳を物理的に破壊すれば意識は途切れる点や、
アルコールを摂取したら思考能力が変化する点など)
物理的な刺激が直接、思考に反映されると考えられます。
よって、脳の思考領域は、「脳が現在考えられる範囲でしか
思考が成立しない」ということなので、物理的に脳が停止したら、
思考(精神・魂と呼ばれているもの)が死後の世界まで
持続するとも思えません。

話が少しそれてしまいましたが、
以上が簡単にまとめました私の考えです。

********************

なんだか堅苦しい内容になってしまいましたが、
全然もっと簡単に
「私はこんな風に思っている!理由は言葉にするのは難しいな・・・」
とかでも全然大丈夫なのでコメントしてくださると嬉しいです。
(やたらに突っ込んだりしないので大丈夫ですよ)
最後に「突っ込まないで下さい」とでも書いてくだされば嬉しいです。

是非、学会員さんの意見を聞きたいなと思っています。
仏罰があたる、地獄へ落ちる、とおっしゃるのならば、
その理由をお聞かせください。
私も自分の意見を見直すチャンスにもなります。

ちょっとこのテーマで話したい!とかありましたら、
コメントして下さると非常に嬉しいです^^

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コメント

>せなさん

う~ん・・・ブッダがどのように考えたのか知る術はありませんが、
せなさんのおっしゃる通りかもしれません。
でも、私個人の考えですが、私は無意味だとは思いませんよ^^
実際自分の人生に価値を見いだしていますし、
それが例え単純な「楽しい気分」なだけであったとしてもです。

無意味というのはもちろん意味がないことです。

う~ん、不思議でしょうがないんですが、ブッダはそうした無意味な生にたいして拘泥せざるをえない人間のありかたを無明としたんじゃないんでしょうか?

>せなさん

初めまして、こんばんは!
コメントありがとうございます。

>つまりこの生じたいはいわば死ぬためにある。
>この生にはまったくの偶然、まったくの無意味でしかないっていう本質がある。
>自然はそれに無知だけど意識はそれに自覚的たらざるを得ない。
>意識があるっていうことはそれじたいでいわれるまでもなく地獄なんじゃないでしょうか?

なるほど、生まれた時から地獄である、そういう考え方もありますね。
ここで言う「地獄」という状態は、特別な異世界があって
そこに落ちる、ということではなく、生きていく中で
辛い思いをすることを地獄と変換して言っています。
なので、地獄とはあくまで人の心理状態です。
学会員がよく地獄と言っているので、ここでは使用しました。

せなさんは「この生にはまったくの偶然、まったくの無意味だから
生まれた時から地獄(悪い意味で)」と言っているのでしょうか?
せなさんにとって無意味という言葉に対してどんな定義付されているのか
お答え頂けると幸いです。

え~と、はじめて投稿させていただきますね。

わたしも創価の方やキヨさまがいう地獄って言う言い方はもうひとつよくわからないんですが、自分の感覚にひき付けていうと、人間、必ず死にますよね、つまりこの生じたいはいわば死ぬためにある。この生にはまったくの偶然、まったくの無意味でしかないっていう本質がある。自然はそれに無知だけど意識はそれに自覚的たらざるを得ない。意識があるっていうことはそれじたいでいわれるまでもなく地獄なんじゃないでしょうか?地獄におちろっていわれるまでもなくもうたっぷりおちてるわけで、そんなこといわれても痛くもかゆくもないよって言う・・・そういうふうにはおもわれませんか?
とんちんかんなはなしでしたらごめんなさい。

>釈迦ファンさん

こんにちは!
コメントありがとうございます。

非常に説得力のある文章で、納得させられました。
私が考えていた「第三の目」というものの見識が狭かったように思えます。
私自身も前回のコメントを書いていて、ふと「第三の目」も
結局は自分の目じゃん!と突っ込みたくなったのですが、
釈迦ファンさんの考えも聞きたかったのであえて書いてしまいました^^;

>「書物」も「特定の価値観」も、全部、私の体験です。
>本を読んでも、そのときの自分の目線と文脈で、内容を受容します。
>このために、久しぶりに、かつて読んだ本を開いてみると、
>新しい発見があったりするのだと思います。

そうですね、確かに「本を読む」「何かの教義を学ぶ」も
自分自身の価値観に吸収されるわけですから、
結果的には「第三の目」として分離することは不可能・・・
(それが「他人に強要された」ならば話は別ですが)
それに窃盗の価値観も、あれは極端な例ですが
確かに二元論的には捉えられませんね。

>「常に自分自身を疑う視点を持つ」という方が良いかもしれません。
>このとき、常に自分自身を疑う視点を持てる、ということを、
>一種の自浄作用だとポジティブに捉えたとき、
>「仏性」という考えが腑に落ちた、というくらいのことです。

なるほど。わかりやすいです。
私もこの考えには賛成です。
常に自分の考えを客観視するよう心掛けることはとても大切ですね。
特に宗教という、価値観が固定され易いことについて討論する場合は^^;
私もいつも心掛けていることですが、果たして正しいのか、
正しくないのか(常識とかけ離れていないかどうか)を
いわばこのブログの読者の皆様に判定してもらっていると言っても
過言ではありません。

とても意義有る意見交換でした^^

> キヨさんへ。

まず、前提となっている部分で、私は考えが違うようです。

> それはつまり、第三の目というものが、書物や特定の価値観などによって構築された
> ものであったとしたら、それは釈迦ファンさんとは全く別な、第三の目(人物)となります。
> しかし、釈迦ファンさんは前回のコメントでそれを否定していますので、
> 第三の目の概念は、釈迦ファンさんの今迄生きてきた価値観、概念から
> 作り出されたものだということになります。

私が思うに、これは少し違うのではないでしょうか。

「書物」も「特定の価値観」も、全部、私の体験です。
本を読んでも、そのときの自分の目線と文脈で、内容を受容します。
このために、久しぶりに、かつて読んだ本を開いてみると、新しい発見があったりするのだと思います。

したがって、これらの事柄と「今迄生きてきた価値観、概念」と分離することはできないです。
また、ここから、「全く別な、第三の目(人物)」ということ自体、有り得ないと思います。

以上から、「あくまでも自分の価値観の中でしか判断を下せない」ジレンマは、そもそも誰もが背負っている、当然の前提なのではないでしょうか。
したがって、仰るように、私の言う「第三の目」も、このジレンマの範疇にあります。
このジレンマを受け入れた上で、あえてどのように進んでいくのか、が問題なのだと思います。

「窃盗」に関してですが、「価値観」は、そのように二元論的に捉えられるものでしょうか。
(もちろん、あえて例えとして出されただけだと思いますが)

まず、私にとっては、自分自身でも説明しきれないほど、複雑です。
「窃盗」に関して言うと、単に「窃盗」という概念を取り上げると、間違った行いだと思います。
しかし、具体的なケースに触れざるを得なかったときに、常に「罪深い」と断罪できるかどうか、わかりません。
このように、「窃盗は間違った行いだが、やむにやまれず行ったような場合は必ずしも間違っているとはいえないかもしれない。想像は難しいが、正当化される場合もあるのかもしれない。」と、こと「窃盗」に関しても、えらく複雑です。
平たく言うと、ケースバイケースです。

また、「自分の価値観を『窃盗は正しい行い』とねじ曲げて考える」ですが、私の「価値観」は捻じ曲げないといけないほど固定的ではなく、常に変容しています。
どれほど頑なな人でも、先述したような複雑な価値観が、諸々の体験に全く影響されず、不変である、というようなことがありえるでしょうか。
先ほどの「窃盗」の話で行くと、「ケースバイケース」といいましたが、そもそも判断する「私」自体が常に変容しているため、導かれる結論も常に変化しうると思います。

私は、この価値観の変容を積極的に受け入れ、少しずつ「良い」方向に近づいて行きたいと思っています。
そのための手段としては、私と異なる意見や考えに積極的に接することと、自省が挙げられます。

ここまで書いて、どうも最初の私の書き方が良くなかったような気がしてきました。
「信用できそうな第三の目」とか「仏性」とか書いたのがどうも・・・。
「常に自分自身を疑う視点を持つ」という方が良いかもしれません。
このとき、常に自分自身を疑う視点を持てる、ということを、一種の自浄作用だとポジティブに捉えたとき、「仏性」という考えが腑に落ちた、というくらいのことです。

答えになっているのかどうか、不安です^^;

>釈迦ファンさん

こんばんは!
コメントありがとうございます。

本当に申し訳ない・・・^^;
私の説明が下手でした。説明し直します。

前回のレスでは『信用できそうな第三の目を仮定している、
これは、釈迦ファンさんの分身と言えるのではないでしょうか?』と述べました。

それはつまり、第三の目というものが、書物や特定の価値観などによって構築された
ものであったとしたら、それは釈迦ファンさんとは全く別な、第三の目(人物)となります。
しかし、釈迦ファンさんは前回のコメントでそれを否定していますので、
第三の目の概念は、釈迦ファンさんの今迄生きてきた価値観、概念から
作り出されたものだということになります。
ということは、その第三の目は、あくまでも自分の価値観の中でしか判断を下せないという事です。

極端な例を挙げますと、

Aという教義を元にして第三の目が構築されたとします。
Aの教義の中では「窃盗は正しい行い」となっていたとします。
しかし釈迦ファンさんは「窃盗は罪深い行い」という自分の価値観があります。
元々「窃盗は正しい行い」という価値観は、全く釈迦ファンさんの
価値観内では存在していなかったことになります。
Aの教義を第三の目だとし、それが真理だと自分の中で決めると、
自分の価値観を「窃盗は正しい行い」とねじ曲げて考える事になります。
(創価学会がしつこい選挙活動や祈伏を正しい行為だと思っているように)

ここまで極端なことは無いと思いますが、
釈迦ファンさんには上記の例でいう「窃盗は正しい行い」というような全く別の
価値観が自分の中に無いのですから、
「窃盗は罪深い行い」という
自分の価値観を第三の目としている、つまり、自分の頭で(価値観内で)
考えられることを第三の目として捉えている、ということになりませんか?

何だか私が単に、深く考えすぎて空回りしている気がしてきました・・・
単純に、自分の道徳としていること、例えば目の前に大金があったら
欲しいけど勝手に盗る事はいけないことだからしない、
というものを第三の目としているとか・・・

もしコメントしづらかったら無視しちゃってください^^;

>チョココさん・旦那様

こんばんは!
コメントありがとうございます。

チョココさんのコメントに対して、とても共感できます。
なので、私が何かをお聞きすることはありません。
「地獄のような苦しみを味わう」なんて、無責任に
言ってほしくないですよね。相手を思いやって言っていると
学会員の人は言いまずが、私たちにとってはそれは本当に迷惑な行為だと
わかってほしいものです。

無宗教でも、どんどんコメントしてください!
私だけでなく、様々な人が見て下さいますから^^
このような場を持ててとてもよかったと思っています^^

> キヨさんへ
ちょっとよくわからなかったのですが、「結局、自分自身の認識・思考の限界により、『第三の目』は必ずしも信用できるわけではないのでは?」ということでしょうか?

だとすると、仰るとおりで、その限界は把握しています。

仏教の多くは、その認識の壁を取り払う方法論を提供し、問題を解消しようとしているのだと思います。
ただ、私がこれらの方法を貫徹できそうな気がせず、積極的になれないのです。

「民主主義は最悪の政治形態だ。過去に試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば。」というのはチャーチルの言葉だったでしょうか。
私がとっている「第三の目」の方法は、同じようなことで、宗教的な才能のない私にとっての次善の策といえます。

ちょっと、エントリーの趣旨から外れてしまいましたが、問題ないでしょうか・・。

 キヨさん、こんにちは!
 無宗教で生まれ育った人間が意見出して良いのかわかりませんがサンプルのひとつとして提供します。
 
 地獄を辞書で調べてみました。(大辞泉)
 架空の話は置いておいて、たとえとしての意味は「非常な苦しみをもたらす状態・境遇のたとえ」とありました。
 
 苦しみを感じる状態や境遇を「地獄」という単語で例えて使うならば、私は育つ上でもう地獄を見てきました。
 ですので私個人で言えば、たかがいち組織に所属しようと、そこから抜けようと、それによって「非常な苦しみをもたらす状態・境遇」には至らない、というのが私の結論です。
 それが創価学会であろうと別の宗教であろうと会社であろうと、です。
 
 創価学会にとって、脱会は会員に不利益なものでなくてはならないはずです。
 そうでなければ学会の利益も、公明党の得票率も下がりますから、私達のようなアンチ系の存在は「営業妨害」にあたるわけです。
 また、それがわかっているから「退転したら地獄に落ちるぞ!」などと平気で人に言ってしまう学会員さんを見ると、残念だなーと思ってしまいます。
 
 私は阪神大震災を被災しました。
 あれはまさに例えるなら「地獄」で、それは誰に対しても平等に降りかかった災難でした。
 地球上の小さな、いち生物である人間は島が少し揺れただけで命を奪われます。
 ただ、その地獄のような酷い状況から立ち直ったのは小さな人間達がこつこつその手で助け合って働いたからであって、何らかの神秘的な助けがあったわけではありません。
 1月17日の夜、避難先の体育館に初めて届いた毛布の温かさ、近所の食品工場が無償提供してくれた食料の味は今でも忘れられません。
 
 私個人が「地獄へ落とす」ことのできる相手がいます。
 私を頼る、旦那や子供、実家の家族らです。
 彼らを見捨てたり、私が無責任な行動を起こして迷惑をかければ、彼らは「地獄」を見るでしょう。
 逆もしかりです。
 
 同じように、旦那が脱会届を提出したことを嘆く人がいれば、その人はショックを受けることによって「非常な苦しみをもたらす状態・境遇」に落とされたことになるでしょう。
 ただ脱会した本人である旦那自身にはなんら影響はなく、苦しみを感じることはありません。
(と、旦那は申しております)
 
 以上です!

>たまさん

こんばんは!
コメントありがとうございます。

退転者は脱会者と同じ、ということは、
「学会に迷惑をかけて辞めていった人」ということですね。
そこは非常に線引きが難しいですね・・・
何をもって迷惑ととるかは、人それぞれですからね。

>後以下挙げられている事例は、何故学会を辞めると悪いこともしてないのに
>地獄に堕ちるというのか? ですね。

とおっしゃっていますが、たまさんは最初のコメントで
「業」という言葉を使っていました。
因を積んでいるから、結果的に地獄に落ちると言われます、と。
この因、というものは、一体何なのでしょうか?
結果的に、とおっしゃっていますが、結果的とは、
一体何と何が繋がって導きだされた答えでしょうか。

コンクリート詰め殺人事件については、
本当にご冥福をお祈りします。惨すぎます。
なぜ常識では考えられないような苦しみを受けたのか。

例えば、Aが誰かを殺して逃げていた、
しかし、そのAに復讐しようとしてBがAを殺害したとしましょう。
そしたら、Aは人を殺した事により、Bの恨みを買い
結果的に殺されてしまった、と言えます。
ここで言う何か悪い事は「殺してしまった」という事実です。
しかし、この事件の被害者の場合、そのようなことは
調べる限りでは出てきませんし、実際に加害者も、
その被害者だけをあらかじめ狙って事件を起こしたものではないと言っています。
ということは、被害者でなくてはならない理由はどこにもなかったのです。

私は、実際自分が起こした事件と直接関係がない限り、
「偶然」だと思います。偶然ではなかったら、
誰かが天から見ていてその周りの人を操り、
(自分が業を積んできて、でもいいです)
事件を起こしたというとんでもないことが起きてしまいます。
もし、その理屈が通ったとしたら、被害者はなんとなく
「過去に積んだ業で悪い目に遭った」と言えますが、
加害者側はどう説明するのでしょうか。
加害者も「過去に積んだ業で」犯罪を犯してしまったのですか?
因果関係がしっかり証明されない限り、
そこに「過去の業」などは存在しないと思います。
「あの人は業が深かったからあんなことを・・・」なんて、言える訳が無いのです。
「人にたくさん恨みを買っていたから」とは言えますけどね。
それが果たして仏法でいう「業」なのか、それは、違うと思います。
それはただの、「恨み」です。

>釈迦ファンさん

こんばんは!
コメントありがとうございます。

信用できそうな第三の目を仮定している、
それは釈迦ファンさんの分身とも言えるのではないですか?
第三の目の人は、特に何かの教えを忠実に守っている人が
ベースとなっているのではないとしたら、
それは釈迦ファンさんの脳の中の人物、すなわち、
「自分が自分の脳で思考できる範囲での人物」となりませんでしょうか。

地獄に関しては、旧式さんへのコメントでも述べたように、
決して完結している状態ではないので、
「這い上がったり、おちたり」というのはとても納得です。

>旧式さん

こんばんは!
わかりますよ~^^
コメントありがとうございます。

私も、地獄という概念そのものがおかしいと思います。
しかしここで言うのはあくまで比喩であり、地獄とは
「辛すぎる苦しみ」などでしょう。
体験している本人が辛いと思ったら、それは「辛い」という
言葉があるのと一緒で、ここではたまたまそれを「地獄」と
変換して言っているだけなのです。

なので、実際地獄がこうだとか、そういうことは私は
正直わかりません。「地獄」という全く別の異世界が
あるとは全然思っていません。
なので、地獄に落ちた、と「完結」することはないのですよ。
あくまでもその人の辛い「状態」を指しています。

テーマと違っても、どんどんコメントしてください☆
「なるほど、そういう考えもあるな」といつも刺激を受けます。
様々な意見を聞けて、とても嬉しいです^^

度々お返事本当にすみません。

>では、退転者はどのような位置付けなのでしょうか?ご回答願います。
脱会者と同じ位置づけで良いかと思いますよ。

後以下挙げられている事例は、何故学会を辞めると悪いこともしてないのに地獄に堕ちるというのか? ですね。

では、今回のきっかけになった「17才の女子高生を40日にわたって監禁した上、数名での強姦、殴る蹴るの暴行、ライターのオイルをかけ点火するなど、激しく執拗な暴力を加え、死体をコンクリートに詰め遺棄した」彼女はなぜこのような常識では考えられない壮絶な地獄の苦しみを受け死んでいかなければならなかったのか?
たまたま偶然?  それとも何か悪いことでもしたのでしょうか?

キヨさんへ。

> 釈迦ファンさんがその他者の目をべースとして
> 真実に歩み寄りたい、とお考えならば、それは釈迦ファンさんの
> 人生観ですね。

真実がどうこう、というような大変なテーマを抱えているわけではなく、人生を通してだんだんマシになっていきたいな、という程度です。

> 架空の他者の目、この存在はどのように
> 構築されたのですか?

構築というより、未熟な自分の目が信用できないので、信用できそうな第三の目を、仮定しているだけです。

> 何かの経典を参考にしているとか・・・

そんな、大げさなもんではないですよ ^^;
むしろ、もともとそういう目を意識することがあり、仏教に関する本や仏典に触れたとき、それが「仏性」なのかな、などと思っただけです。
「地獄」概念についても、同じようなことで、先に「地獄」概念ありきではありません。
このように自分の体験に照らして、仏教的な概念を勝手に解釈しているので、仏教にお詳しい方にどの程度同意を得られるのか、自信はありません。

もう一つ、旧式さんの以下の文の趣旨に、賛同します。

> 世の中辛い事も悲しい事も沢山あります。人を恨む事、生まれを呪いたくなる事もあります。
> でもそれらはまだまだ過程の中の一遍で「地獄に堕ちた」と完結することではないと思います。

私の「地獄」観では、「地獄」に落ちた、ということがあっても、それで完結しません。
何度も、地獄に落ちたり、這い上がったり、天に生まれたりしながら生きてゆくのだと思うからです。

地獄って

キヨさん。いつもお世話になっております。判ります?

最近まで全く「学会」とは縁の無かった者です。
無宗教っていうか、今まで宗教なんてまともに向き合って考えた事もありませんでした。

さて、そんなオイラでございますが「地獄」とか「地獄に堕ちる」という概念そのものが理解できません。
脱会とか退会したからどうだとか、不幸だとか貧しいとか…辛い事は辛いでしょうけど「地獄」ってまでの発想には至らずでございます。
時折煮詰まって
「あ~地獄だ!」
なんて口走る事はあっても、心底そう思う事って中々ありません。
皆さんからすれば失笑されるかもしれませんが、針の山で金棒を持った鬼に追いかけ回されるよりは世の中そんなに地獄っぽいものってないと思ってます。

世の中辛い事も悲しい事も沢山あります。人を恨む事、生まれを呪いたくなる事もあります。
でもそれらはまだまだ過程の中の一遍で「地獄に堕ちた」と完結することではないと思います。

なんかテーマと違ってきましたが、無知なオイラの中での考えでございました。
聞き流して下さい。

>釈迦ファンさん

おはようございます!
コメントありがとうございました。

>正直なところ、「我に返」った自分が「地獄」にいない、という確信はありません。
>これは、私が、私の言う「地獄」にいるとき、自分が今まさに「地獄」にいることを
>認識できないケースが、多かったからです。
>したがって、このように偉そうに能書きをたれている自分が、
>「地獄」にいない、という保証はまったくありません。
>この経験から、私は、「地獄」に架空の他者の目を想定してしまうのです。

釈迦ファンさん自身の「地獄の概念」で
「「地獄」にいない、という保証はまったくありません。」
とおっしゃるのならば、その通りなのでしょう。
私が「釈迦ファンさんは地獄にいないよ!」とは
言えないですからね。

架空の他者の目、この存在はどのように
構築されたのですか?何かの経典を参考にしているとか・・・
釈迦ファンさんがその他者の目をべースとして
真実に歩み寄りたい、とお考えならば、それは釈迦ファンさんの
人生観ですね。おっしゃる通り、人をおびえさせる人が
「仏」であるとは私も思えません。

>「地獄に落ちるかどうか」ということには踏み込まず、
>「人を脅すことは良くない」という程度のことしか言えないですね・・。

私はその程度で充分良いと思います。
世間一般の常識として、これは迷惑だろうと考えられる
思考回路があれば何も問題ありません。
あってもそれをしてしまっているのなら余計駄目ですが^^;

> キヨさんへ

「地獄」が何を指すのか、ということについて、私はキヨさんと考えが違うようですね。

おそらく、その理由は、私が自分自身にあまり自信を持っていない、ということでしょうか。

> 後から我に返ると、叫びだしたくなるような、人として恥ずかしい行動をとってしまうことがあります。
と私は書きましたが、正直なところ、「我に返」った自分が「地獄」にいない、という確信はありません。
これは、私が、私の言う「地獄」にいるとき、自分が今まさに「地獄」にいることを認識できないケースが、多かったからです。
したがって、このように偉そうに能書きをたれている自分が、「地獄」にいない、という保証はまったくありません。
この経験から、私は、「地獄」に架空の他者の目を想定してしまうのです。

この「他者」は、様々なとらわれから離れ、もはや「地獄」に落ちることがない存在でなければなりません。
そして、自分もそのように「地獄」に落ちないですむようになるには、人生の深い経験を積み重ね、何度も「地獄」に落ちつつも、この「他者」の目を手がかりに、真摯に歩み続けるしかないのだと思います。

私にとって、この「他者」が「仏」と同じように思え、そのためにお釈迦さんのファンをやっています。

ただ、私のような考えは、「闇雲に『地獄へ落ちる』と決め付ける」ことを許してしまう可能性が、確かにありますね。
私が仏ならよかったんですが、残念ながら程遠いので、「それは嘘だ」と言い切れないのです。

ただ、そのように言い、人をおびえさせる人が「仏」であるとは思えません。
私がもし限界まで「仏」に近づけたら、そのイメージは「雨ニモマケズ」のような人の気がします。

なので、私の立場では、そのように決め付ける人に対しては、「地獄に落ちるかどうか」ということには踏み込まず、「人を脅すことは良くない」という程度のことしか言えないですね・・。

とりとめもなくなってしまいました。

>釈迦ファンさん

こんばんは!
コメントありがとうございます。

釈迦ファンさんの言っている事、よく理解できます。

地獄については、
私は「個人の主観の問題」と思っています。
他人はあくまでそれを判別する傍観者であり、
真髄を突くことはできないと思っているからです。
相手をみて、討論することはできますけどね^^

>脱会することによって地獄に落ちることがあるか、
>ですが、当然、そういう場合もあると思います。

につきましては、脱会=地獄では無いと言うコメントがありましたので
あまり追求はしませんが、結果的にそのようになった、
というケースはもちろん存在しますよね。
しかし、脱会という一種の行為=地獄とはならないと思います。
(これは釈迦ファンさんは認めてくださっていますね)
そのような人もいるし、そうならない人もいる、ということですね。
なので学会員が闇雲に「地獄へ落ちる」と決めつけるのは浅はかな気がします。

「脱会者は地獄へ落ちる」という命題は、「脱会者は全員が地獄に落ちる」と読めますね。
この点については、キヨさんがおっしゃるように、このようなことはありえないと思います。

また、「地獄」ですが、私はこれは一種の比喩だと思っています。
われわれは、獣でも見せないような見苦しい姿を見せてしまうことがあります。
後から我に返ると、叫びだしたくなるような、人として恥ずかしい行動をとってしまうことがあります。
これが地獄なのではないでしょうか。

そうかと思えば、真心からの、自然な優しさに満たされ、行動に移せることもあります。
このように、我々はいろんな自分を変転しつづけますが、この変化には当然原因があるはずです。
その原因は常に一つではないでしょう。
しかし、その内の一つくらいは、自分で制御可能なものなのではないでしょうか。

したがって、自分自身の意思・行動の結果、地獄に落ちる、あるいはその逆に天に生まれる、ということは当然の理屈だと思います。

脱会することによって地獄に落ちることがあるか、ですが、当然、そういう場合もあると思います。

例えば、脱会した後、反カルトがカルト化するケースのように、鬼のようになって学会を叩くことに血道をあげるようになれば、これは「地獄に落ちた」といえるでしょうね。
ただ、この場合でも、学会に戻ったら地獄から抜けられる、とはいえないですね。

また、脱会した後、学会に心を残し、後悔にさいなまれ、我を失うようなことがあれば、これは「地獄に落ちている。」といえるように思います。

ただ、もちろん脱会したことにより「天に生まれる」こともあるでしょうね。

>創価瓦解さん

こんばんは!
コメントありがとうございます。

他のブログの学会員さんと非学会員さんのコメントのやりとりを
見ると、よく思う事があります。
学会員の方が、非学会員の方の質問に全然答えていないということです。
「質問に答えて下さい!」と促しても、帰ってくる答えは決まって
「あなたは信心から離れてしまっている」だとか、
「御書にこう書かれている」だとか、その方の意見を聞きたいのに、
的外れな事を言っている方がかなり目立ちます。

創価アンチ系のブログに来て発言するという事は、
私のように反論する人がいるのだと絶対にわかっているはずです。
回答も用意しないで発言するのは、このような場では
余計にバッシングされる結果になります。
「アンチは学会員を批判するだけが趣味」みたいに言われて終わることが多いですね。
こちらはちゃんと話し合う為に質問しているのに・・・
色々なブログを読んでいて、またか・・・と思う事が多々ありました。

一昨日の参議院予算委員会での民主党の石井一議員の発言については、
私も昨日とある動画サイトで見ました。発言内容はかなり内容が濃かったです。
是非皆さんにも見る事をお勧めします。
学会員の方は「民主党がデマ言っている!」と頭から否定するのではなく、
一人の人間としての発言として聞いてみて下さい。
途中速記が中断し、石井氏の質問に結局自民党側が答えられない
場面もありましたが、それを見た時に「今の日本がこれか・・・」
と正直悲しくなりました。

石井氏が伝えたかった事、政治界で追求したかったこと、
今の日本で問題になっていることがよくわかります。
今youtubeを確認したらありました。
コマ切れですが、順番に見て行けば全部見れます。
是非見てみてください。
削除される可能性がありますので、見たい方は
下のURLから『石井一 創価』などで検索して見てください。
お早めに!

youtubeのURL
http://jp.youtube.com/

創価瓦解さん、ご紹介とお気遣い、ありがとうございました^^

地獄の電話番号は459-4242ですか?

なんと言いますか、キヨさんの無理のない反論を読むのが楽しいというか、たまさんが学会に批判的なブログで学会内でしか通用しないことを書いているのが無理があるというか・・・お二人のやりとりは、バリ学会員以外の人には「どっちの言うことに説得力があるか」というのは見えているように思います。

たまさんは、通用しないのを承知の上でやっているのか、それとも通用すると思ってやっているんでしょうか?

学会の教学を前提として「正解」などという言葉を発するなど、非学会(「反学会」ではない)の人は、バリ学会員の選民意識に驚愕です・・・一応ダジャレを入れてます^^;

細かく突っ込むと長くなるし、キヨさんの的確な指摘があるので、のんびり様子を窺うことにしようっと・・・と言いながらすぐコメ入れたりするかもしれないけどね^^

そうそう、一昨日の参議院予算委員会で民主党の石井一議員が創価学会のことを色々と言ってました・・・「池田名誉会長に来てもらいたい」等々の素晴らしい発言が色々ありました!
youtubeで「石井一」と入れて検索すると、その一部が見られますので、ぜひご覧ください・・・一応ここにURLを貼るのはやめておきます。

>たまさん

こんにちは!コメントありがとうございます。
感謝なんてとんでもない、テーマを提供してくださってとても嬉しいです^^

>まず学会では、退会者と脱会者は分けて考えます。

そうだったのですか。この線引きは知りませんでした。
私は同じ単語として扱っていました。
では、退転者はどのような位置付けなのでしょうか?
ご回答願います。

また、普通に退会しても、親や学会員に
「地獄へ落ちる」と言われる人が非常に多いのですが、
これはなぜでしょうか。
自分の価値観の違いで退会した、
それは別に「悪いこと」ではないのですよね?
まるで悪いことをした人のように扱われるのはなぜでしょうか。

>ですから、キヨさんが結論を出されている「脱(退)会行為が
>直接の原因になって地獄の苦しみを味わう(仏罰)
>ことは非常に考えにくい」と言うことは大正解です。

ということは、闇雲に退会した人を非難するのは
大間違いではないのでしょうか?

>良いことをすれば良いことが現れ、悪いことをすれば悪い行いが現れる。
>このことが基礎教学である「因果の理法」なのです。

その概念は共感はできませんがわかります。
では、ある事柄をして、それを「良いこと」と「悪いこと」と
区別する方法はどのような方法なのでしょうか?
私は、良いこと、悪いことの基準は今の世界の常識
に基づき構成されていると思います。
そして、時にその基準はなくなり、通用しなくなることもあると。
例えば、オウム真理教の中ではサリンによって人を
殺めることを「良いこと」として捉えていました。
そのように曖昧なラインを、「基礎教学」とできるのでしょうか?

そして、「現れ」とおっしゃていますが、
どこから現れるのですか?自然にそうなるのでしょうか。
自然に・・・ということは、そこに特別な力が働いていない、
ということです。「何もしなくてもその状態になる」
というのが自然、ということだと捉えています。

>先のコメントにも書きみましたが、この仏罰とは仏が罰を与えるのか?
>キヨさんがおっしゃっている「神秘的な力が働いて人に罰を下す」
>なんて事は、キヨさんと同じく私も学会でも考えられません。
>では、この仏とは誰のことなんでしょうか?

「仏法は宇宙のリズム」と母から聞いたことがあります。
そのリズムに自分の生命が合致するから何事も上手くいくと。
これって、完璧「神秘的な力を認めている」ということではないでしょうか?
それは、「創価学会でこの仏法を実践しないと体感できない」
ものなのですから。元から有る、しかしそれは普通では体感できない、
気付かない、ということは、どこかで「普通じゃなくなる」必要が
あるということです。要するに、「学会員でないとダメ」ということを
言っているのです。

私は、仏とは、別にどこかに特別な神秘的な力が存在する、
というものではなく、その人自身にある「価値観の現れ」
だと思っています。なので、特別な対象ではありません。
仏に拝む行為は、自分に拝む行為と一緒だと思います。

これを当てはめて考えてみると、
「自分自身の力で自分へ罰を下している」ということになります。
自分は他の神秘的な何かに何も影響されず、
自分の運命を自分で左右していると。
でもこれって、当たり前じゃないですか?

神秘的な力が存在しなければ、学会否定になる気がします。
自分の力を引き出すだけなら、別に他の方法もあるのです。
しかし学会の御本尊に執着しているのは、
「拝むと力を引き出し易い」というメリットがあるからです。
結局学会員は、神秘的な力を認めざるを得なくなります。

学会員の方は、「仏が全部見ている。池田先生は全部わかっている。」
とよくおっしゃいますが、ではこれはたまさんにとって、
どのような意味合いを持つのでしょうか。

※なんだか色々と考えすぎてパンク寸前でしたので、
意味不明な箇所もあるかもしれませんが、
また自分で読み返してみて、変だったら修正いれます(^_^;)
その時はちゃんと報告しますね。

ありがとうございます

>キヨさん 
私みたいなもののために、わざわざこのようなな場所を作って下さいありがとうございます。
本当に感謝しております。

まず学会では、退会者と脱会者は分けて考えます。
書類上は同じ退会者なんですけどね。
脱会者とは、学会の組織を利用し商売をしたり、お金の貸し借りや男女問題等組織に迷惑をかけてやめていった方々のことを言います。
つまり悪いことをし、相手に地獄のような苦しみを与えた因を積んでいるから結果的に地獄に落ちる言われます。

私とて同じです。
このような行為を組織の中でやっていれば当然地獄に堕ちるでしょう。

なのでほとんどの退会者は、その後社会でよほどの悪因を積まない限り、地獄なんて堕ちません。

良いことをすれば良いことが現れ、悪いことをすれば悪い行いが現れる。このことが基礎教学である「因果の理法」なのです。

ですから、キヨさんが結論を出されている「脱(退)会行為が直接の原因になって地獄の苦しみを味わう(仏罰)ことは非常に考えにくい」
と言うことは大正解です。

次に
>「仏罰は自分の主観によって引き起こされるもの」と考えているので、仏罰は思い込みだと考えています。

先のコメントにも書きみましたが、この仏罰とは仏が罰を与えるのか?
キヨさんがおっしゃっている「神秘的な力が働いて人に罰を下す」なんて事は、キヨさんと同じく私も学会でも考えられません。
では、この仏とは誰のことなんでしょうか?

ひとまずここまで。

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こんにちは、キヨです。 周りから様々な影響を受けて無宗教になりました。 このブログは、恋人や知人が創価学会で苦悩している 人と学会の方々にあてたブログです。 記事はあまり順番を気にして書いていないので、好きなタイトルからご自由にお読みください。リンクはご自由にして頂いて結構ですが、その際コメント欄で教えて下さいね。

キヨ

Author:キヨ
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