創価学会の私と無宗教の彼

学会3世・活動家だった私。元恋人に影響され、無宗教になりました。

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私が活動家時代に常々思っていたことは、
若い世代の学会員(私も含め)の仏法に対する知識不足でした。
「仏法に対する知識不足」とは、簡単に言うと御書を読む
若い活動家が少なくなっているということです。

御書とは、創価学会にとっての経典(キリスト教でいう聖書)です。
もうちょっと詳しく言うと、
日蓮大聖人という創価学会の生みの親的な人が書いた
論文や、弟子や門下生に書いた手紙が主な内容になっています。

『創価学会は日蓮大聖人の仏法を広宣流布することを
 使命とする仏意仏勅の教団である。』

                      (SOKAnet:公式ホームページより抜粋)

要するに、日蓮大聖人の教えを世界中に広めていこう!!
というのがモットーであって、その真髄となる日蓮大聖人の遺した
「御書」を学ぶのは学会員にとって「超大事」であると私は思っているのです。

しかし若い学会員の多くは、
(ここで言う若いとは、10代半ばから20代後半ぐらいまで)
御書をまともに読んでいる人はとても少なく、4年に1回程度の割合で
行われている「青年部教学試験」を受ける上で少し勉強するぐらいです。
それと、毎月行われる地域の座談会での御書研鑚もありますが、
内容は2~3ページ程度、しかも御書自体は長くても10行ぐらいの
本文を解説しているだけにすぎません。

御書(日蓮大聖人御書全集)の総ページ数はなんと1636ページ。
私も持っていますが、かなり分厚い(厚さ見る限りハリー・ポッター以上)です。
しかもハリー・ポッターの本の文字の大きさを想像してはいけません。
ページには物凄く細かい字がびっしりです。
昔の人間が書いたものなので、現代人にとっては古文みたいに感じます。
あの高校時代に習ったよくわからない(少なくとも私にとっては)
古文らしき文章が1636ページもある本を、若い人は読む気になるでしょうか?

今はわかりやすく解説されている本が多数出版されていますが、
それらの本を自分で買って勉強する若い人たちも少ないと思います。
学会員にとって、それらの書物を中古で買うのは気が引けますし、
(中古で買うと、その本の税金が還元されないからなるべく新品で
 買おうと教えられているため。)新品で買うとなるとかなりの出費になります。

学会員が創価学会の教えの真髄となる御書を読まずに、
池田大作氏の著作のものを読み折伏する光景はとても異様に見えます。

「池田先生はこのようにおっしゃってる。」
「池田先生の平和思想は素晴らしい。」
「池田先生の青春対話を是非読んでごらんよ!」

といくら言ったとしても、日蓮大聖人の御書を根本としている時点で、
折伏に御書を持ち出さないということはどういう意味をなしているのか?

要するに、折伏に御書は必要ない

っていうミモフタも無いことが言えてしまうのです。

日蓮大聖人の仏法=御書なのではないでしょうか。
当たり前ですが、日蓮大聖人はもう生きていないので彼が遺した
書物や手紙を読んでこの仏法を学ぶしか方法はないのです。

しかし、これからの創価学会を背負っていく2世・3世・4世が
この御書を読んでいないとどういうことになるのか。

それは、信心に一番大切な「この信心が正しい!!」
という確信が薄れていくということです。


私は池田大作氏の書物を通じて信心の確信を持つことを否定はしません。
しかし、それはあくまで「池田大作」という人間に対しての信仰であり、
確信なのです。

「池田先生は日蓮大聖人様の生まれ変わりだ!」
と言っていた人もいましたが、そもそも生まれ変わりという発想自体
根拠も証拠もなければ、私達にとっては絶対に知ることができないことです。
(日蓮大聖人が自分の生まれ変わりを的確に示した文章があるならともかく)

仮にもし、池田氏が日蓮大聖人の生まれ変わりか、
日蓮大聖人の意思をちゃんと受け継いでいるとしましょう。

しかし、そしたらそれこそ問題なのです。

日々学会員が祈る対象としての御本尊の中心には、
しっかりと「南無妙法蓮華経日蓮」と書かれています。
「日蓮大聖人を拝む=池田大作を拝む」ということになってしまいます。

実在している人間を拝むなんて、非常にナンセンスだと私は思います。
しかし現在の創価学会を見ていると、どこからどう見ても
カリスマ的存在感のある池田大作氏を敬愛し、尊重し、持ち上げています。

「池田先生に一生ついて行く決意であります!!」
「師弟の絆をもっと深く!!」

日蓮大聖人の仏法なのではないのですか?
池田大作という人間の仏法なのですか?

創価学会の真髄である御書の内容をあまり勉強しないで祈伏ということは、
「学会の核」を知らないのと同じです。
核を知らない人間が、池田大作氏を褒め称えその人間像によって
折伏をするとなると、それは「池田大作学会」になってしまうのではないでしょうか。

池田大作氏も人間です。
病気にもなりますし、いずれ寿命がきてしまいます。
彼がいなくなった後、創価学会は何を対象に祈るのでしょうか?
「神格化した池田大作」を祈るのでしょうか。
なんだかますます変な話になってきました。

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コメント

>和也さん

こんにちは!
お返事遅れてすみませんでした!
中途半端な文章になってしまったらすみません(>_<)

>①生きて行く上で、つらい事や大変な事、苦難とか困難とか、
>壁や障害となるものはたくさんある。
>泣きたいこともあるだろうし、頭にくることもあるだろうし、
>投げ出してしまいたくなることもあるだろうし、立ち上がれないこともあるでしょう
>②でもね。そういう時こそ、勇気を出して一歩を踏み出していこうよ。
>泣いて泣いて泣き止んだら、上を向いて行こうよ。
>いま自分が出来るところからやっていってみようよ。
>③そうすればきっと、きっと何か見つかるよ。

とても良い考えだと思いますよ^^
前向きに生きるのはとても良いことだと思います。
この考え方でストップしてくれれば私は何も言いません。
うんうん、そうだよね、前向きに考えていくことは大切だよ☆となります。

私がなんで?と思うのは、
そこに「幸せになるためにはこの仏法しかない!!」と
物凄く限定的な価値観を強制してこようとすることです。

『辛い時には泣きなよ、辛いって言っていいんだよ!
泣いたり悲観的になったり、それは悪いことではないよ!
自分でいっぱい悩んで、他の人の力を借りたりして、
だんだんと立ち直っていけたら最高だけど、無理はしちゃいけない!』

私の価値観はここでストップです。
相手が大切な人なら悩みを解決するのを手伝うし、
相手が何も私と接点がなかったらおそらく気にならないでしょう。
しかし、学会員の人はここで、

『一緒にこの信心をして幸せになろう!
今あなたが不幸なのは、この信仰をすれば絶対に解決できるから!
この仏法と出会ったということは、縁があるということなんだよ!』

と続けます。
挙句の果てに「この仏法を信じないと成仏できないよ!」
と半ば脅し文句を言ってきます。

>妙法を身口意の三業を持って実践していけば、
>生命は妙法と合致します。
>妙法が宇宙と生命を貫く根本法であるが故に、
>全宇宙の十界(自分自身の生命の境涯)の衆生が法華経の行者を助け、
>その祈りを成就させていくのです。

「妙法が宇宙と生命を貫く根本法であるが故に」
とありますが、なぜ妙法が宇宙と生命を貫く根本法だとわかるのですか?
それは、そう書かれているから信じているだけなのですか?
それに、「妙法を身口意の三業を持って実践していけば、
生命は妙法と合致します。」とおっしゃっていますが、
合致する論理的な説明をお願いします。

もし、「そう信じているから」という風におっしゃるのだとしたら、
または「そう御書に書いてあるから」とおっしゃるのだとしたら、
私がとある年季の入った書物を引っ張り出して、

「このランプをこすれば、宇宙のリズムと私達のリズムが合致して
 生命は高まり、より幸福な人生を歩め、天国へ行けると書いてあるんだよおお!!」

と言っているようなものです。
こんなセリフ言っている人がいたとしたら、普通は変人と思われて終わります。
宗教って、全く論理的に考えられない文化なので正直苦手です。
ただ私は宗教建築物が好きなので、その点ではとても好きです。
もし私が納得するような説明があるのならば、是非教えていただきたいです。

御書については、
>たとえ、大地をさして外れることがあっても、
>また、大空を繋いで結ぶ者があっても、
>また干潮と満潮の運行がなくなることがあっても、
>太陽が西から昇るようなことがあっても、

ここまでは、理解できます。
有得ない自然現象を並べている文章ですからね。
しかし・・・・・・・・・

なぜ、

>法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にないのである。

と続くのでしょうか?
~だったとしても、祈りが叶わないことはない、と繋げていますね。
これは、~だから、祈りが叶うんだよ、とはならないです。
これを見る限りでは、和也さんのおっしゃる通り、日蓮の確信です。
日蓮という人物が自分なりに確信したことにすぎません。
この文章で「祈りが叶わないはずがない」と言いたいのなら、
最後の文章に『なぜなら~だからです。』と祈りが叶う理由を説明しなくてはなりません。
それをすっ飛ばしていきなり「祈りが叶わないはずがない」と言っているのは、

私が、
例え毎日アイスクリームを100個食べたとしても、
例え一生食事がカキ氷でも、
例え今生ガキを200個食べたとしても、
私のパソコンは壊れない!!

と言っているのと原理は一緒です。
上と下の文章の論理的繋がりが一切無い、ただの確信。
「単にそう思っている」だけにすぎません。
そこには説得力など何も無く、聞いてるこちらは?状態です。

>法華経それ自体の中に、
>"諸経の中で最勝の法華経を受持する者は一切衆生の中でもっとも第一である"
>と、説かれています。
>にもかかわらず、
>法華経の行者である日蓮大聖人を迫害した人々は、
>孝行を説いた孝経をもって親を打つのと同じ矛盾を犯していると厳しく破折されています。
>諸天や諸仏が衆生の行動はすべて照覧しています。

諸経の中で最勝の法華経を受持する者は一切衆生の中でもっとも第一である、
この「第一」は、一番良いの第一ってことですか?
それとも、最も大切である第一ですか?それとも両方でしょうか。
それに、諸天や諸仏が衆生の行動をすべて照覧しているとどうしてわかるのでしょうか。

私はここ数年でかなりのガチガチの論理頭になってしまったので、
学会の方は読んでいて「なにいってんのコイツ!?」となるかもしれません。
しかし、どうしてもわからないことが山済みで、私を納得できる解説があれば、
是非聞きたいのです。今まで盲目的に信じていた身です。
どこが矛盾しているのかは、知りたいのです。

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こんばんは。
手短に書き込みますね。


自分が言っている趣旨、文章や話で言おうとしている事柄を簡潔に言いますね。


生きて行く上で、つらい事や大変な事、苦難とか困難とか、壁や障害となるものはたくさんある。

泣きたいこともあるだろうし、頭にくることもあるだろうし、投げ出してしまいたくなることもあるだろうし、立ち上がれないこともあるでしょう


でもね。そういう時こそ、勇気を出して一歩を踏み出していこうよ。泣いて泣いて泣き止んだら、上を向いて行こうよ。

いま自分が出来るところからやっていってみようよ。


そうすればきっと、きっと何か見つかるよ。




これが言いたいということです。





絶対に叶わないわけがないと確信を奮い起こしていく大切さを第一に教えているのですよ。

大聖人は
「叶わないわけはないんだよ」と。

その上で
  ↓
日蓮大聖人御書全集
[御書全集1351ページ18行目~1352ページ1行目]

祈祷抄
【大地はささばづるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず】

【通解】
たとえ、大地をさして外れることがあっても、また、大空を繋いで結ぶ者があっても、また干潮と満潮の運行がなくなることがあっても、太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にないのである。


法華経の行者の祈りは必ず叶う。
これが、日蓮大聖人の確信です。

本抄で日蓮大聖人は、
「大地をさして外れる」
「大空をつなぎ合わせる」
「潮の満ち干きがなくなる」
「日が西から出る」など、自然の法則に背いた、
あり得ない現象がたとえ起きたとしても、
"法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にない"、と断言されています。

法華経の行者とは、
法華経を身口意の三業をもって行ずる人のことです。

妙法を心で信じ、口で唱えると共に妙法をひろめるために、
我が身を捧げていく人をいいます。

法華経には三類の強敵など様々な法華経の敵が現れると説かれていますね。
この敵と、身命を惜しまず戦ってこそ"法華経の行者"といえます。

妙法を身口意の三業を持って実践していけば、
生命は妙法と合致します。

妙法が宇宙と生命を貫く根本法であるが故に、
全宇宙の十界(自分自身の生命の境涯)の衆生が法華経の行者を助け、
その祈りを成就させていくのです。




法華経それ自体の中に、
"諸経の中で最勝の法華経を受持する者は一切衆生の中でもっとも第一である"
と、説かれています。

にもかかわらず、
法華経の行者である日蓮大聖人を迫害した人々は、
孝行を説いた孝経をもって親を打つのと同じ矛盾を犯していると厳しく破折されています。


諸天や諸仏が衆生の行動はすべて照覧しています。

自分自身の行動はすべて、自らの生命に刻印され、その報いは必ず自分自身の生命に顕れるということです。

これが冥の照覧です。




























>和也さん

こんにちは!

>自分がその人に言うのではないですよ。
>そんなこと言えないし、、、、
>なかなか言えるものではありません。。

しかし和也さんは現に、「その彼女がただ泣いているのは不誠実だ」
とこのブログで言っているではないですか。(下記参照)

>顔と全身を焼かれた女性が「しあわせになりたい」と強く思う自分がいるのに、
>「こんな姿だから無理」「こんなに醜いから恥ずかしい」と思い、
>何も行動せず、ただ泣き、自分は不幸だと嘆くのは不誠実だと言うのです。

自分が面と向かって言うか言わないか、これは今この場では
重要ではありません。「思うか思わないか」が重要なのです。
私は、その彼女の「頑張っていこう」とする気持ちは素晴らしいと思います。
決して誰もが思える気持ちではありません、とても尊敬します。
しかし、「彼女がそのように頑張ろうと思わなければいけない」では
決してないと思うのです。「頑張ろうと思わなければ幸せに対して不誠実だ」
とは決して思わないのです。

>自分が不幸でも不幸なこと、辛いことから目を背けてただ泣いているだけでは
>それはいけないと言うのです。
>それがいけないというのは"しあわせ"になる権利を放棄することに値するからです。

「しあわせになる権利を破棄する」と言っていますが、
それを破棄したからといって=いけないことでしょうか?
幸せになる権利は誰にでもあります。私も多くの人々が幸せになれたら
とても嬉しいです。しかし、それはあくまで「権利」であり「義務」ではありません。
「あなたは泣いてばかりいて悲観的で幸せにたいして失礼だ」と
言うのはいいとしても、「だから前向きに頑張る義務がある」とは言えませんよね。

和也さんは、「しあわせになりたくないと言うなら「いけない」とはいいません。」
とおっしゃっていますが、ただ泣いて悲観的になる=幸せになりたくない、と
直結して考えてしまっているのだと思います。
私はただ泣いて悲観的になっている=幸せになりたくない、とはならないと思います。
幸せになりたい、でも今は辛い。泣きたい。悲観的になってしまう。
その悲観的な思いは、次の幸せになるためのステップであって、
それが長かろうが短ろうが、その人には必要なスパンなのです。
例えそれが長期間続いて、それがその人の寿命になるまで続いたとしても、
「それは不誠実だ」なんて言えないと思います。

>人間には、自分で自分の運命を切り開いていく可能性が厳然と、あるのです。
>誰であろうと自分自身の力で、
>その可能性を現実のものとしていくことが出来るのです。
>これが仏法です。

私は、自分の運命を切り開いていける「可能性」はあったとしても、
それを「現実のものとしていくことが出来る」とは断定できないと思っています。
あくまで可能性であり、切り開けない人も大勢います。
生まれたときからどう考えても運命から抜け出せない境遇の人だっているでしょう。
私は絶対的に人を救える宗教は存在しない、と思っています。
この世の中に「絶対」と言い切れるものは、今自分が感じているこの感覚、
「今まさに自分を感じている感覚」のみだと思っているからです。
哲学的になってしまいますが、自分以外のこの世界を、
私達は存在していると「信じる」しかないのだと考えています。
なぜなら、証明のしようがないからです。
そんな「世界」という大枠が曖昧な存在なのですから、
そこから生まれる価値観・宗教も、もちろん絶対的なものだなんて信じません。
私はあくまで、この世界が存在すると「信じている」に過ぎないからです。

>苦難に直面した時「もう駄目だ・・・・・・」とあきらめたらそれまで。
>いわゆる「ハイそれまでよ~」です。
>それで喜ぶのは、人の不幸の上に幸福を求め
>「人の不幸は蜜の味」と一番自分が嫌いなバカな思想をもった魔性の人間だけですよ。

和也さんがこの思想を「バカな思想をもった魔性の人間」とおっしゃるのなら、
私は和也さんにとって、バカな思想をもった魔性の人間だと思います。
私は自分の幸せは、結果的に他人の不幸の上に成り立っていると思っています。
と言っても、マンガみたいな「アイツが不幸で私は幸せ~」とかではないですよ^^;
他人の不幸は不幸で私も悲しくなります。

例えば、典型的なのが就職ですよね。
私がもしどこかの会社の内定をもらったら、当然その分1人落ちます。
それは相手にとって「かなりの不幸」であるかもしれません。
しかし私はその人が(あるいはもっと多くの人が)落ちてくれたおかげで
内定をもらえたのです。誰かが幸福になるためには、
失恋とか落選とか様々な要因がからんでいるのです。
いくら絶対に勝つ、と思っても、勝てないことはいくらでもあります。

世界中の人間が一人残らず幸せになれることなんてあり得ないと思っています。
幸せな人がいれば不幸な人もいます。
得をする人がいる反面、損をする人もいる。これは自然なことです。
「人間は社会や世間から離れて生きることは出来ません。」
とおっしゃっていますが、その通りなのです。
そのようなしがらみを一切絶つのは、人間として社会を放棄するのと同じです。

>「やるだけやってみよう!いけるとこまでいってみよう!」
>「絶対に叶わないはずがはない!」
>「絶対に乗り越えて見せる!今に見ていろ!」
>と、瞬間瞬間の生命に勇気を奮い起こして、
>二度と来ない、
>この[今]を懸命に生き抜いて行くということです。

このように思って自分で頑張るのはとても良いことだと思います。
頑張ろう!と思って実行するのは凄いです。
私がここで主張したいのは、あくまで

○そのように頑張ることはとても良いことだと思う。
しかし、その価値観を他人に強要するのはいかがなものか。

ということです。
自分だけでそのような価値観を持ち、
頑張っているのはいいのではないでしょうか。
それを「この仏法でしか幸せになれない!」と限定・断定して言うのは
価値観の押し付けであり説得力がないと思います。

>お母さんが「地獄に落ちるわよ」というのは
>言い過ぎですね。。。。言い方があると思います・・
>でも、お母さんは決してあなたが憎いわけではありません。
>それはキヨさんあなたも分かっているはずです。

はい、わかっています。母は私を心の底から憎んではいないと思います。
しかし、「憎んでないなら言って良い」とはならないのです。
言って良いことと悪いことの区別ができない学会員が多すぎます。
その言葉をどう受け止めるか、は、言われた本人が判断することであり
他人が判断できるものではありません。
例えば、セクハラも同じことです。
「本人がセクハラだと感じない」のならそれはセクハラではないのです。
しかし、大多数の人が「そんなのセクハラじゃないよ」と言ったとしても、
本人がセクハラだと言えば、それは立派なセクハラになります。
個人の主観が大切なのです。

>日蓮大聖人の仏法を信奉する創価学会は、なにも不思議な神秘的な力で、
>どうこうするのではないのですよ。あくまで自分自身の力で、です。
>自分で努力もしないで祈りが叶ったら人間は堕落しちゃいます。
>そんな都合のいい祈りは叶うはずもありません。
>それは前にも言った通りです。
>努力しないで叶うというなら、それこそ魔法使いです。
>それこそが、非現実的ということです。

では、なぜ祈伏の時に「祈れば何でも叶う」と言う学会員の方が多いのでしょうか?
それまでの努力の必要性を全部すっ飛ばしていきなり「祈れば叶う」です。
努力の必要性はわかっていて当たり前のことだ、とおっしゃるのなら、
私は学会員さんに「当たり前のことではないからちゃんと明言したほうがいいですよ」
とアドバイスします。「祈れば何でも叶う」という言い方をやめたほうがいいでしょう。と。
祈りにすがらず、ちゃんと努力して結果を出すことを説明した方がいいと思います。

>絶対に叶わないわけがないと確信を奮い起こしていく大切さを第一に教えているのですよ。

では、「絶対に祈りが叶う」ということを否定するのですよね?
「絶対に叶わないわけがないと確信を奮い起こしていく大切さを第一に教えて」くれる信仰
ということになりますよね。だとしたら、「絶対に祈りが叶う」なんていうセリフは
使わないほうが良いと思います。
しかしこれを認めることになると、「祈って叶わないことは無い」という
学会の教えに真っ向から対立するものになりますが。

日蓮の教えがこうだから、学会は正しい、これは大きく間違っています。
日蓮の教えが「絶対に叶わないわけがないと確信を奮い起こしていく
大切さを第一に教えてくれる信仰」であったとしたら、学会と
かなり食い違いがでてくるからです。

>この時初めて
>「..........打てた。。去年....全然打てなかったのに。。。
>腰が安定して・・・・ぁ・・・・・もしかして・・あの走り込みか・・・・!」
>「単純だなバカ」と思いますか。
>それでもいいでしょう。
>「そう思ってるだけじゃん」そうおっしゃりますか。
>それでもいいでしょう。
>なんでも一見無意味なこと、根拠のない練習でも、
>初めてその根拠に気付く時があります。

私は走り込みが結果的に「打てた」というものに繋がっていると思いますよ。
「単純だなバカ」とも「そう思ってるだけじゃん」とも思いません。
一見無意味なことに全然見えないからです。
かなりトレーニングとして意味があると思います。
根拠の無いこと、要するに、野球でどうしても打てない!
神様どうか打たせてください!と練習しないで祈っている、
というパターンにおいて、その行為は打率には直接影響を及ぼさない、
と私は言っているのです。
その祈っている分練習したほうが遥かに打率は上がると思います。
スポーツや勉強は、そのような努力と結果が最も結びつき易いものですからね。

しかし、祈ることによって「頑張ろうという気持ちが湧く」という効果は
私はあると思います。祈って筋力がアップするのは魔法使いです。
祈りは意識を高めるための1手段であり、決してそれは
「祈り」に「限定」することではなく、他の物でも代用がきく、
ということなのです。

こんにちは
キヨさん、仏法とはさん

今日は仕事が休みで、明日はめいっぱい仕事なので、いま少しでも書き込みますね。



>何も行動せず、ただ泣き、自分は不幸だと嘆くのは不誠実だと言うのです。

これは堂々巡りなんかじゃないですよ。
よく聞いてくださいね。


自分がその人に言うのではないですよ。
そんなこと言えないし、、、、
なかなか言えるものではありません。。

「あきらめに支配され、何も行動を起こせないのは、しあわせになりたいと思う自分の気持ちや心に対して不誠実だ」と言うのです。



>自分が幸せでも、不幸なこと、辛いことから目を背けてただ泣いているだけでは
それはいけないと。

ちがいますよ

自分が不幸でも不幸なこと、辛いことから目を背けてただ泣いているだけではそれはいけないと言うのです。

それがいけないというのは"しあわせ"になる権利を放棄することに値するからです。

しあわせになりたくないと言うなら
「いけない」とはいいません。

人間には、自分で自分の運命を切り開いていく可能性が厳然と、あるのです。
誰であろうと自分自身の力で、
その可能性を現実のものとしていくことが出来るのです。

これが仏法です。



>どこまでが「その人にとってできることなのか」を和也さんは見極められるのですか?

自分が見極めるのではないですよ。そんな趣旨で言っているのではないですよ・・・・・・
だから"いま自分が"とありますね。人の人生に他人の自分がやれることを見極めなければなんて思いませんよ・・・。

苦しいことは苦しいとして、自分が"いま出来ることをやる"
それをやらずに肩を落とし下を向いて歩いてても
電柱にぶつかるだけだと言いたいんです。


なにも特別難しいことを言っているのではないのですよ。



日蓮大聖人の御書で
【鉄は災打てば剣となる】

【くろがねをよくよくきたへばきずのあらわるがごとし】

勇気づけられる御聖訓は他にもたくさんありますが、
いま思い出しただけのものを挙げました。


熱い鉄を何度も鍛え打ち、不純物を出すことで強靭な剣が出来上がる。
同様に自分達、私達も苦難を避けることなく立ち向かい、乗り越えることで"何ものにも負けない確固たる自己"を築くことが出来るのです。

苦難に直面した時「もう駄目だ・・・・・・」とあきらめたらそれまで。
いわゆる「ハイそれまでよ~」です。
それで喜ぶのは、人の不幸の上に幸福を求め
「人の不幸は蜜の味」と一番自分が嫌いなバカな思想をもった魔性の人間だけですよ。


「絶対に勝つ」と決めて行くことです。

それに対し
「失敗したら・・・・」とか
「駄目だったら・・・・」とか
「出来なかったら」「祈りがかなわなかったら」ではないのです。


「やるだけやってみよう!いけるとこまでいってみよう!」
「絶対に叶わないはずがはない!」
「絶対に乗り越えて見せる!今に見ていろ!」

と、瞬間瞬間の生命に勇気を奮い起こして、
二度と来ない、
この[今]を懸命に生き抜いて行くということです。


人間は社会や世間から離れて生きることは出来ません。

壁や苦難にぶつかり、
失敗する怖さから行動を起こさず、
世間に振り回され、翻弄される人生が敗北だと言うのです。

誰もが内面に[臆病な自尊心]や[尊大な羞恥心]といった猛獣の様な心を持ち合わせています。
その心に流されてしまうのか、飼い慣らすのか。

人がよりよく生きる分かれ道となります。

御書に
【心の師とはなるとも心を師とせざれ】と。

弱い心に従うのではなく、自分の中に揺るがない「心の師」を築く。そのために模範となる師を求め、人格を磨いていくのです。と、あります。


自分の好きな言葉の一つに
"あなたには、あなたでしか咲かせられない人生が、花がある"

だから
"どんなにつらいことがあっても、自分が負けない限りはその先に、必ず希望の未来があるんだ"

そう信じて、押し潰されそうな人生でも、勇気を奮い起こし、我が身に具わる仏の生命をあらわしていく

【一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起こるなり所謂南無妙法蓮経は精進行なり】




きれいごとではないのですよ。

逃げも隠れもしない[現実]として
自分がそうっだったのですから




お母さんが「地獄に落ちるわよ」というのは
言い過ぎですね。。。。言い方があると思います・・

でも、お母さんは決してあなたが憎いわけではありません。それはキヨさんあなたも分かっているはずです。

自分が中学か高校かの時に、、、
何かで思い通りにいかず、周りに対してやり場のない気持ちを文句たらたら、おふくろに延々と言ってたら
「そういう心を地獄界」とおふくろにさらりと言われてしまったことがありました・・・・(笑)

「っだよ!それ!(怒)」と言うと同時に
グ━━━━━━━∑(゚□゚*川━━━━━━━━サ
ときてました。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




>努力が大切なんて超当たり前ですが、
>宗教という「なんだか不思議な神秘的な力」を主体>としている場合、
>「祈る=願いが叶う」と勘違いする人は多いに決ま>っています。

日蓮大聖人の仏法を信奉する創価学会は、なにも不思議な神秘的な力で、
どうこうするのではないのですよ。あくまで自分自身の力で、です。

自分で努力もしないで祈りが叶ったら人間は堕落しちゃいます。
そんな都合のいい祈りは叶うはずもありません。
それは前にも言った通りです。

努力しないで叶うというなら、それこそ魔法使いです。それこそが、非現実的ということです。

これに対して自身に具わっている力を最大限に発揮させていく祈りがあります。
その究極を教えているのが日蓮大聖人の仏法です。

この仏法を信じているようでも、
自ら努力もしないで、すがりつくだけならそんな祈りは叶いません。

水の上で火を焚くように無益です。

【叶ひ叶はぬは御信心により候べし】

叶うとか叶わないとかいうのは、あくまであなた自身の信心によるのです。と仰せになっています。

祈る側の信じる力(信)と実践する力(行)の強弱によって決まるのです。いくら長い時間、題目を唱えても、疑いながら祈っていては、叶うものも叶わなくなるということです。

【いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく・太刀つるぎにて・つかう人の臆病なるやうにて候べし】

祈りが叶わないというのは、ちょうど弓が強いのに弦が弱く、太刀や剣があっても使う人が臆病であるようなものである。
と言われております。

絶対に叶わないわけがないと確信を奮い起こしていく大切さを第一に教えているのですよ。

気張って大声で唱題しなければとかでなく
日蓮大聖人は、
"子供が母親を求めるように御本尊を信じて題目を唱えていくことを信心というのです"と。

取り繕うことなく、まっすぐな純粋な気持ちで御本尊にぶつかる、向かうところに強い信力が生まれてきます。

偉大な力が自分の生命に具わっていると信じ抜いていく。その力を出せる様に祈り抜いて行く。
現実に自ら努力の限りを尽くしていく。

日蓮大聖人の仏法では
[確信]と[祈り]と[行動]は一体です。
そうあってこそ祈りは叶っていきます。


努力しないで
>祈って願いが叶うんじゃなかったの?

例えば
「無事故を祈っているから信号無視しても事故らない」

そんなことがありますか?これは屁理屈ではありませんよ。

いつも前しか見てなかった運転を、周囲に気を配る運転に変える、スピードを出し過ぎない、脇見運転をしない等

簡単に言えば、これが努力です。
それをしもしないで「祈りが叶わない」と言うのは
自分を信じないで、なにものかに頼った考えです。


野球部なのに走っているだけの練習で、
来る日も来る日もランニングで・・・その練習に根拠を見いだせない練習があり、悶々と走っている。

(ったく・・・・・全然根拠がないんですけど・・まぢ)
って思いながらも。。走っている

一冬越して春の大会で、
大きく落ちるカーブのピッチャーの球に対して、下半身のタメが効き打ち返せた。
(野球が分からなかったらゴメンなさい)

この時初めて
「..........打てた。。去年....全然打てなかったのに。。。腰が安定して・・・・ぁ・・・・・もしかして・・あの走り込みか・・・・!」

「単純だなバカ」と思いますか。
それでもいいでしょう。

「そう思ってるだけじゃん」そうおっしゃりますか。
それでもいいでしょう。

なんでも一見無意味なこと、根拠のない練習でも、
初めてその根拠に気付く時があります。


祈りは無意味なことではないのですよ。



































和也さんはじめまして

コメント見てましたよ。ご縁がありましたね。

日蓮の仏法は、「他力本願ではない」とか言っていましたね。こう言っては失礼ですが、まだお若いです。仏法というものがわかっていません。もっと世界を見聞したらいかがですか?「直接体験」が出来ないようでしたら、「間接体験」を。

創価の御書は1600ページあるそうです。噂によりますと、ニセモノも混じっている。ようにも聞きます。確か、日蓮宗は「真筆」のみを集めて本を出していたようですが、内容は創価より少ないようです。

若き日蓮は「真言亡国」と誹謗しましたが、歳を取って丸くなった時、真言を認めていました。確か御書にもあるはずです?なければ創価や聖教新聞が捏造したのでしょうか?

真言宗は、いろいろな真言があります。日蓮は戦争に勝つには、〇〇将軍の真言を唱えろと言っています。偶然というのは必然ですが、聖教新聞に御書の言葉として紹介されていました。

自力も他力も「コインの表と裏」。魔も仏も「コインの表と裏」。結局同じものです。だだ、見た方向が違うだけです。

創価の信者が「魔」だと言って騒ぐのは、あまりにも狂信的な信心をするので、仏が慈悲心を出して「魔」となってストップをかけたのでしょう。狂信的になればなるほど「魔」が出てくるのは当たり前です。

しかし、宗教以外の「魔」。例えば「放火魔」など。これば次元が全く違う言葉の文の「魔」です。

聖教新聞の「理想の仏国土をつくる」など、と言う言葉に騙されてはいけません。

芥川龍之介は「杜子春」という小説を書きました。主人公は、地獄にいる母を見かねて「お母さん」と叫んでしまいました。仙人は言いました。「もし、母を見殺しにするようなら、おまえを殺してしまうつもりだった。」と。

狂信的に信心して追い求めているのは、「仙人のような仏」ではないですか?信心しても、死んでしまっては価値がありません。

それから、中島敦の「名人伝」もお薦めです。

目をつぶっていれば世界は見えませんが、目を開ければ「路傍の石でも金剛石」に見えるものです。ただ、創価にはそれなりの価値があることは認めます。

>和也さん

こんにちは!

>"しあわせになりたい"と思う自分の気持ちに対して、
>苦しいことがあるからといって、
>「関係ねぇぇぇぇオッパピ♪」と
>投げ出してしまうと言うのは、しあわせに対して不誠実です。

>そうじゃなくて、前回お話した
>顔と全身を焼かれた女性が「しあわせになりたい」と強く思う自分がいるのに、
>「こんな姿だから無理」「こんなに醜いから恥ずかしい」と思い、何も行動せず、
>ただ泣き、自分は不幸だと嘆くのは不誠実だと言うのです。

例えば、目の前にお腹がすいて倒れている人がいる。
しかし自分は満腹で、その上、手にはハンバーガーを持っている。
満腹で今幸せ!こんなのもういらないや!とその倒れているひとの前で
ハンバーガーを捨てたりしたら、それは「人間として不誠実」だと思います。
不誠実、というか、相手の気持ちを考えていないというか。

今幸せだから、苦しいこと(上の例であげるならさらにハンバーガーを食べること)
を投げ出した時に「不誠実」という言葉が用いられるには、
その対象となるものが必要です。和也さんはその対象が「幸せ」とおっしゃっていますよね。
自分が幸せでも、不幸なこと、辛いことから目を背けてただ泣いているだけでは
それはいけないと。

おそらく、これは価値観の違いなので私と和也さんは理解し合えないと思うのですが、
私の価値観は、

○自分が今幸せで、過去の不幸なことから目を背けるのは幸せになる上で
  ある程度は必要なこと。それを「目を背けているから不幸だ」とは言えない。
  もし仮にそれが不幸だったとしても、それを決めるのは「本人」であり
  他人である私達が「不幸だ」と断言することはできない。

というものです。
その不幸にあった女性の話も、私はとても可哀想だと思います。
決して「不幸でない」とは思えません。しかし、

>何も行動せず、ただ泣き、自分は不幸だと嘆くのは不誠実だと言うのです。

という部分に関しては、上記の私の価値観にもあります通り、
不誠実だとは思いません。泣いているその彼女に向かって
「不誠実だ」なんて思えませんし、もちろん言えません。
本人に向かって言える人がいたら、私はその人と仲良くなれる気がしません。

>出来ないことをやれというのでなく、いま自分が出来ることをやる、
>出来ることは何か?何をやるべきかと真剣に考えて、
>いま出来ることをやり通すこともしないで、
>やれしあわせじゃない、しあわせだって言うのはおこがましいどこでなく、
>不誠実だと言うのです。

どこまでが「その人にとってできることなのか」を和也さんは見極められるのですか?
私にはできません。それに、今幸せなら良いと思います。
それが他人を不快にしたり、迷惑をかけたりしていなければ
(例えば親のお金を使いまくって幸せだ!と言っていたり、誰が見ても
自分勝手な行為でなかったら)私は特に何も思いません。
むしろ自分で幸せを掴んだんだね、と思います。

>魔法の呪文のように、(テクマクマヤコンテクマクマヤコン)
>祈ればなんでもパッと叶ったら誰も努力しないし、そんなんでご利益だ、
>加護だってあったらそりゃ人間を堕落させるゎ!!!
>1600ページを超える御書にどこに書いてあるでしょうか?
>頼ればとか頼りなさいとか、すがりなさいとか、すがれとか・・・・・

私が以前学会員の方にご紹介していただいた指導では、
「祈って任せる」のがいいのだそうです。(下記URL参照)
http://www.geocities.jp/kon_890/newpage3kawai3.html

私もこのような指導は聞いたことがあります。
「とりあえず祈りなさい。叶わないことなんてないのだから。」と。
日蓮が御書で言っているかどうかは、はっきり言って
私にはわかりません。(読破していないため)
なので私は日蓮の仏法を否定なんてしていませんよ。
私が否定しているのは、あくまで「創価学会」です。
学会の教えでは、祈れば必ず叶うとあります。
不可能なことも祈れば叶うと。創価学園に至っては、
祈らないと合格できないとまで言われました。
私は単純に、勉強不足で合格点にとどかなかったから
不合格だと思いますし、実際そうだと思います。
祈れば何でも叶う、と豪語している学会がよくわからないのです。
しかもそれを他人に強要しようとする態度が、嫌われてしまう理由です。

はっきり言って、

『自分ができる限りの努力をして、私達はその努力のポテンシャルを
高めるためにこの仏法を用います(祈ります)。ポテンシャルが高まることに
よってさらに努力ができ、結果的に願いが叶う率があがります。』

と言っているのなら私は否定しません。
そこで、

『幸せになるためにはこの仏法しかないんだよ。だから一緒に信心しよう。』

と学会に限定して勧誘するのは変です。

『私はポテンシャルを高めるためにこの音楽を聞いています。
 それはとても効果があります。』

と言われたら、それがその人にとって合っている方法であり、
学会を強要する必要なんて全くないのです。
もしこの創価学会の仏法のみでしか幸せになれないとしたら、
その理由とちゃんとした統計を見せていただきたいです。

こんばんは。^^

・・・・・・・・
今日は少し時間があるので。。書き込みしますね。


>しあわせに対しての"誠実さ"

人は誰しもしあわせを願っています。そのために努力している。

"しあわせになりたい"と思う自分の気持ちに対して、
苦しいことがあるからといって、
「関係ねぇぇぇぇオッパピ♪」と
投げ出してしまうと言うのは、しあわせに対して不誠実です。

決して勘違いして欲しくないのは、
キヨさんが不誠実だとか言うことではないです!!
(そんなこと微塵も思ってませんから!)

そうじゃなくて、前回お話した
顔と全身を焼かれた女性が「しあわせになりたい」と強く思う自分がいるのに、「こんな姿だから無理」「こんなに醜いから恥ずかしい」と思い、何も行動せず、ただ泣き、自分は不幸だと嘆くのは不誠実だと言うのです。

出来ないことをやれというのでなく、いま自分が出来ることをやる、出来ることは何か?何をやるべきかと真剣に考えて、
いま出来ることをやり通すこともしないで、
やれしあわせじゃない、しあわせだって言うのはおこがましいどこでなく、不誠実だと言うのです。




多くの宗教が教えているのは、結局のところ
自分でなく神や仏、阿弥陀如来だ秘法だ壺だ、秘伝だ、果ては神の水だ、空中浮遊だと言うのです。

「どうかあなたの力で私の願いを叶えてください」という祈りです。
(魔法じゃあるまいし!)

それが"他力本願"なのではないですか?

魔法の呪文のように、(テクマクマヤコンテクマクマヤコン)
祈ればなんでもパッと叶ったら誰も努力しないし、そんなんでご利益だ、加護だってあったらそりゃ人間を堕落させるゎ!!!


1600ページを超える御書にどこに書いてあるでしょうか?
頼ればとか頼りなさいとか、すがりなさいとか、すがれとか・・・・・

大聖人が女性信徒に宛てたお手紙に
【頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。】
と仰せになり「頼れば」でも「すがれば」でもなく
「動かせば」と言われてます。

決して日蓮大聖人の仏法は他力本願なのではないのです。

一人一人の人間の生命、どんな人間であれ全員が、自分自身の胸中には本来仏性が具わっており、その仏性を他ではなく、自分自身の力で引き出し、現実社会で活躍して行く。

これは他力本願ではありません。
それどころか自分の可能性を信じ抜く立派な人間です。












彼女とずっと毎日一緒にいました・・・・

初めてのデートで映画館行ったけど、彼女、寝てた
zzz(´~`)
次も映画館行ったけど、また寝てた
(笑)

一緒に暮らしだして、家具を見に行くのがとっても楽しくて、、、
街の全ての景色が、いままでにないほど輝いて見えた。


男子部の人が来たけど、自分は愛想だけ振りまいて終わり。
なにもしなかった。でも、しあわせだった。



昼間はドライブスルーのマックに寄って、
ドライブしながら、ハンバーガー食いながら、夢を語り、
夜は居酒屋でまた夢を語り合った。


「(o^-^o) ねぇ子供が出来たら名前はなに?なににする?」

「うーーーーーーーーーーーーーーーーん、、、(○`~´○)モグモグ、、、わかんね」

「愛がぃぃょ!LOVEだよ!愛ゎ地球を救ぅょ!」

「うん。いい名前だね^^賛成ッ!!(○`~´○)モグモグ」
(食ってばっかの自分だったかも、、、)


食器棚はスモークの両面開きで食器はこういうやつね。

冷蔵庫は[勝手に氷]できるやつね。

洗濯機は絶対にこれで、掃除機はファジー機能が付いてるのね。

テーブルやソファはどこそこで見てみようよ。

クローゼットはPARCOにぃぃのあったよ♪

絨毯はシャギーがいいな。

カーテンは絶対これ!死んでもこれ!これ以外は受け付けないよ「ニヒヒヒ( ^∇^)」

テレビはSONY?Panasonic?

ベッドはキングサイズのフランスベッドにしちゃおうよ
!実家に羽毛布団と羊毛パットが新品であるし!高かったらしいけど、丸八のすっごいぃぃやつだよ!
(サイズ合うのかよ・・??????w)

寒いから、、、、、、ストーブも見てみようよ


「これいいじゃん!」

「ぇ~~~こっちのほうが可愛ぃょぉ~~」

「そぉぅかなぁ、、、、??」

「ぇ~~それ?!センス悪ぅぅぅぅ~~(笑)」

「ははははは!(笑)まぢかよ?!(--,)センスいいと思うけどなー」

「ねね!黒と白のブラック&ホワイト攻撃ってどうよ?どうよ?( ´Д`)σ)Д`)σパニョパニョ」

「は?攻撃っ?(笑)」

「黒と白を基調とした部屋にしようよ!ね!?」

「・・・・・俺、花柄、けっこー・・好きなんだよな、、、、、特に黄色フェチ。。ダメ?(笑)」

「ぶっぶーーーーーーーーーーー!却下(`×´) 」



毎日が楽しくて怖いものなんてなかった。
この気持ち分かりますか?


少しずつ家具とか生活必需品を手に入れて
2人だけの部屋で乾杯したり洋画を観たり・・
たまに一緒にゲーム。。。。(自分弱くていつも負け)

ライブにも行った。おいしいと噂のラーメン屋さんにも行った

一緒にご飯食べて、手をつないで、おどけて踊ったり、毎日、好きだった。ずっと愛してた。
365日腕まくらして寝てた。
*:・'゜。.:*:・'゜。.:*:・':*・*

人のことなんてどうでもいいとは思わなかったけど、
友達より自分だし彼女だし、社会貢献とか必要な人間にとか関係ないし
(関係ねー♪おっぱっぴ)
結局自分達が一番でいまの幸せは永遠だった思ってた。

実際永遠だし、、、みたいな。
絶対、、心にあった

ずっとこんな日が続いた。年末も正月も盆も、、、
平凡だけどしあわせだった。

春が来ても夏が来ても秋が来ても1年経っても
10年経っても100年経っても生まれ変わっても
永遠に未来永劫、一緒に居たいと思った。

彼女もおなじ気持ちだった。


「奥さんになったらもっとおいしいの作ってあげるネ!だからいまね、お料理勉強してるの!」

可愛いと思った。守りたいと思った。
自分が犠牲になっても彼女を守ろうと真剣に思った。

自分の命に代えても守りたいものが初めてあった。

価値観もおなじで、美人で聡明で、愛嬌があった。
彼女と一緒にいると、なんでかな?素直になれて、実家のボロ家にも連れて来れた。。w

いままでと違って、気取ることがなかった。。


2年経って3年経って5年経っても、ずっと一緒に居た。ずっと愛し合ってた。

毎年12月12日を祝った。
(*゜▽゜)/゜・:*【祝】*:・゜\(゜▽゜*)(こんな感じですかね?)
子供も生まれ、結婚式も挙げた。

自分は元気を武器に(?笑)
俄然仕事に燃えて、バリバリ稼いだ。

仕事が分からなくて、出来なくて、失敗して、頭ぶったたかれても(実は悔しくて泣いた。w)土日祝日なしで働いた。

♪月月火水木金金~♪ってこのことかよ!って
なんか納得した。、、、、、、、、、、、、、、、w(笑)


姉さんが
「和也!聖教新聞読んでみてょーー(*^-^)」って言うから渋々契約したけど、1年も2年も読まなかった。右から左から古紙回収・・・・・・・・・

一切読もうとしなかった。
それでいいとか悪いとか何も思わなかった。

ただ、読まないのに勿体無いなとは思った。



愛し合ってる気持ちにお互い変わりはなくて
自分26歳になってた。K子は25歳になってた。。。。。。。。。。。。。。。。

【絶対にこの家族を愛してる。大切にする。】


キヨさんが彼を思う気持ちと一緒ですよ










>和也さん

こんにちは!

>定義や理屈で、"しあわせ"は存在するものではありません。
>赤黄青の信号の様なものでもないと思いますが、
>絶対的幸福はあります。

私も幸せに定義なんて存在しないと思っています。
幸福の基準は人それぞれです。

>前回とかぶるようですが・・・(中略)
>だから不幸ですか?
>しあわせではないというのでしょうか?

いいえ、私は不幸せといっているのではありません。
そのような事態を「不幸せ」と表現する人間が多いということだけです。
幸せなら、その状態を「不幸」なんて言いません。

>彼女は
>「死ねばよかった」「生きているだけで苦しい」と思っているだけでは
>"しあわせ"になれない。姿はこうでも心はある!
>「泣いて、悲観してばかり。。それこそが不幸なのではないのかな、、、??」
>そう思い、あの世でなく、この現実社会で必要な人間になろうと決意し、
>行動をお越した勇気がすごいと思うのです。

私も凄いと思います。私は経験したことがないので苦しみはわかりません。
しかし、想像することはできます。とても辛いでしょう。
自殺を考えるかもしれません。しかし彼女が「でも頑張ろう!」って
思ったことは、とても素晴らしいと思います。

>どうしてこんなことが言えるのでしょうか?
>同じ人間です。
>自分も、キヨさんもキヨさんの彼も、
>みんな同じ人間なのになぜ、こう言えるのでしょうか?
>心に巣くう弱い自分を打ち破ってきたからです。
>他人や物、外の条件に左右されない、これが絶対的幸福です。

弱い自分から打ち勝つ方法に文句を投げる学会員がとても多いです。
弱い自分から打ち勝つ、克服する、たとえ逃げたとしても、
それがその人の心を幸せにするのなら、それは「打ち勝つ」です。
私が創価学会から遠ざかって幸せになれたのも、
学会員から見れば「逃げた」という弱いものとなるでしょう。
そこがおかしいと思うのです。
なぜ、本人が頑張って苦しい思いを克服しようとしているのに、
そこに「あなたは地獄へ落ちる」とか言えるのでしょうか。

他人や物。外の条件に左右されない幸せ、これって本当に
あるのでしょうか?絶対的幸福は『日蓮の仏法ではないと
つかめない』と戸田城聖氏は言っています。
ある意味条件付ということです。創価学会という組織に
思いっきり左右されていると私は思います。
これは外の条件なのではないですか?
学会活動をする、お祈りをする、財務をする、その上で
築き上げられる幸せだということです。
そうでなかったら、わざわざ『日蓮の仏法ではないと
つかめない』と指定する必要なんてありません。
そこに宗教を持ち込む必要がないのに、なぜ持ち込むのですか?
環境に左右されない幸せ、これは、私達がこの世界で生きている上で
不可能だと思います。


>私は、その人が幸せならそれがその人にとっての「真の幸福」だと思います。

>^^なるほど。。。。。。。。。。。。。。。
>ではキヨさんが言う
     ↓
>例を挙げて考えましょう。
>祈ったのだけれど第一志望の就職先A社に内定を>もらえなかったあなた。
>あなたは第二志望の就職先B社に決まりました。
>入ってみて、周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!!
>後々良いことづくめだったとしても、

>「だったとしても、」はそれこそいらない理屈になりますね。。
>その人がその会社でしあわせなのですから、
>「だったとしても、」は屁理屈になってしまいますよね・・・・・・
>「だったとしても、」をつけるのは「そう思いたいだけ」という理屈になります。

>入ってみて、周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!!

>いいじゃないですか!とてもいいことですよね。。
>そこに「だったとしても、」は・・・・・・・・・・・・・
>もう必要ないと言えるのではないでしょうか?

(引用が長くてすみません><)
『「だったとしても、」はそれこそいらない理屈になります。』
とありますが、和也さんはそれは
「入ってみて、周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!! 」
というこのセリフだけを切り取って考えているのです。

ここで私が言いたかったことは、
周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!!なら幸せです。
私はこれを「不幸だ」と否定しているわけではないのです。
その先に書いてある、「なぜA社よりB社の方が良いとわかるのか」
これが一番大事なことなのです。
わかるはずが無いのです、経験していないのですから。
でも、わかったように言い、A社を全否定する。
これでその人が良い気分になるのならば私は良いと思います。
しかし、「思うだけではない」のです。
「だから結果良い道に進んでいる、だから祈りは叶った」と
繋げることが私にはわからないのです。
私にとって、それはこじつけに他なりません。

>頑張っても報われない人、頑張って報われる人、
>「必ず幸せがついてくる」と「信じている」だけだと思います。

>ちがいますね。

>「頑張っても報われないのでなく、報われるまで頑張る」です。
>それが"しあわせになりたい"だから、
>最後までやり通すというしあわせに対しての"誠実さ"ではないでしょうか?

いや、頑張っても報われないのでなく、報われるまで頑張るという
問題ではなくて、現に頑張っても報われなかった人はたくさんいます。
努力したけどダメだった、だから諦めた。こんなこと、
日常でもたくさんあると思います。
成功する・報われることを信じて頑張るのではないですか?
未来のことはわかりません。だからこそ自分の力を信じるしかないのです。
それに、もし報われなかったらどうするのですか?
幸せに対しての誠実さ、という箇所もよくわかりませんでした。(すみません><)
最後までやりと通すことが誠実さなのですか?
では、最後までやり通さなければ幸せに対して不誠実なのですか?
報われるまで頑張る、これは素晴らしいことだと思います。
しかし、報われるまで頑張らなくてはいけない、ということは決してありません。
幸せだ!という感覚は自分で決めるものです。
他人には決して味わうことができません。
これが幸福だ!と万人に言い切れる幸福なんて、存在しないと私は思います。

こんにちは。^^


H高校に入学し野球部に入って、すぐレギュラーになれると思ってました、、、、

1年生120人の部員は
秋になると半分の60人ほどに減り。。。
2年の春には更に減り、20人ほどにまでなってしまいました・・・・

厳しい練習と栄光の道より現実のギャップ、
先輩のいじめ、暴力に耐えられずみんな辞めていったのだと思います・・・・・・・・・・・

残ったのは全国から集まった猛者、精鋭ばかりで、
のちにプロ野球選手になり、活躍した仲間もいました。

生半可な夢だけでは続くはずもなく、
"勝つか負けるか"どう考えても"勝つか負けるか"の
世界でした。

元気だけが取り柄で、
やっとの思いでベンチ入りまでしましたが、
地区予選準決勝進出まででした・・


自分達同期は16名が残りました。

「甲子園には行けなかったけど・・最後までやれてよかった。感謝したい。」
そう微かに思える自分がいました。

ずっと・・
いちばん応援してくれていたのはオヤジでしたね。

いままで趣味もなく、酒漬けで暴れてばかりだったのに、
息子が野球をやることに、水を得た魚のように喜び、
応援し、自分がプレーしているかのように飛んだり跳ねたり、野球選手の真似をしたり、、、、

この頃から徐々にオヤジは
酒は飲んでも暴れたりとかより、野球の話が多くなっていきました。

「(・へ・;;)うーむ・・・・A高校の一番バッターは選球眼が良くて、足が速いぞぉ~!和也、いいか、野球ってぇのはそもそも云々」
能書きだけはいっちょ前になってきましたね、、(笑)


第一希望だったJ高校は
1年生52人が夏の大会終了後に退部し、
残ったのは隣の中学の大エースH1人と聞きました・・・・
でもHも結局2年になると同時に退部し、学校も退学していきました・・


坊主頭のイガクリ君の自分と違って
街で会うHは、キレイな格好で、アロハに茶髪ロン毛で彼女をはべらせ、街で闊歩する姿が「カッコぃぃ」とも思いました。

自分達は夜遅くまで練習し、手はゴツゴツし爪は泥で真っ黒、楽しみといったら、同期と談笑しながらの練習後のグローブ磨きと駄菓子屋でのジュースくらいでしたね、、、、、(笑)wwwwwwww



・・・・高校受験の失敗からか、ほとんど信心から遠ざかっていきました。

1回?2回も会合に出た記憶がありません。




就職も決めず卒業し、したい仕事も特になく、適当に
仕事を探し就職しました。

それでも楽しかった。

好きになったコと付き合ったり、失恋したり、
友達と夜な夜な遊びまくり、語り、酒の飲み方も知らずバカ飲みしぶっ倒れたり、
レンタカーで伊豆に行ったり、ディズニーランドに行ったり。海だ山だ青春だって、、、
いつ寝てんだッてくらい遊んでばかりいました。

男子部の人が来ても
居留守したり、シカトしたり、上の空でした。
「かったりー、、、」これが本音でした。完璧離れてました。

理屈や定義であるとか、形式や儀式とかの
難しいことでなく、

信心の確信が持てなかったんです。
というよりは、確信を持とうと思わなかったんです。


[受験に失敗したから信じられない]
そこで
[止まれ]

それで終わり。

その先を「なぜ、どうして」とか問題にしないで、
研鑽していくことを拒んだんです。

学校のテスト等で、
間違ったところを「どうして間違ったんだろう・・」と見直さないのと全く同じです。

試験を受けるたびに間違ったところを見直して行く。
見直す人と見直さない人。

ただ単に、
試験のテストに一喜一憂するだけでは、成長がないのもこれまた道理です。


都合の良いことばかり考え、
都合の良い疑問ばかりを「そら見ろ」と・・

それでもいいでしょう。

それも普通の人間です。

「強くなくたっていい弱くてもいい」

ずっとそう思ってました。


・・・・


20歳になって


Kちゃんというコと知り合いました。


K子は19で、アパートに一人で住んでいて、
自分がスグにそこに転がり込みました、、、、、
12月12日です。(日付けまでかよ・・怒、、、)





>「真の幸福者」の定義はなんでしょうか?

定義や理屈で、"しあわせ"は存在するものではありません。
赤黄青の信号の様なものでもないと思いますが、
絶対的幸福はあります。


しあわせは自分自身で決まります。
「いつか」ではなく、「いま」。「あの人が」ではなく「自分」です。

[弱いだけの自分か否か]

調子がいいときは誰でも調子がよく、怖いものなしで邁進出来るでしょうね。
それは自分も経験があります。

しかし、つらいとき、大変なとき、生きるか死ぬか、
自分でもどうしていいかわからず、
その逆境の時にこそ、奮起出来るか否かです。

前回とかぶるようですが・・・

目が見えない。
耳が聴こえない。
口が利けない。
足がない。
手がない。

障害者の子供がいる。
子供がいじめられている。

両親が離婚した。
彼(彼女)と別れた。

受験に失敗した。
就職に失敗した。
左遷された。クビになった。

だから不幸ですか?
しあわせではないというのでしょうか?


モデル志望の25歳くらいの女性が、交通事故で顔を含め全身を焼かれ、
顔は凹凸がなくなり、ぞろ(平坦)になってしまいました。

強い生命力で、一命は取り止めたものの
見た目は怪物と化した女性がいます。

退院後は一切家から外に出ることができず、
勇気を持って外に出ても、心無い人達から
気持ち悪がられ、挨拶しても返されず、失意のどん底に落ちて
「死ねばよかった」「生きているだけで苦しい」

自分もきっとそう思ったでしょう・・
それが普通でしょう。弱いとか強いとかでなくみんながそう思うと思います。

自分のことではないと言え、想像を絶する以上の苦しみです・・・。

自分自身を取り巻く世界全体を、炎のように自分に与えた苦しみを呪い、恨むでしょう

他人のしあわせを見て、自分にはそれが望み得ないことを不満に思い、
相手に悪いことが起こればいいと嫉むかもしれません。


彼女は
「死ねばよかった」「生きているだけで苦しい」と思っているだけでは
"しあわせ"になれない。姿はこうでも心はある!
「泣いて、悲観してばかり。。それこそが不幸なのではないのかな、、、??」

そう思い、
あの世でなく、この現実社会で必要な人間になろうと決意し、行動をお越した勇気がすごいと思うのです。

いまでは
「事故の前の私に戻りたいとは思いません」

「だって、あの事故で私は人のあたたかさ、人の強さを知り、なんといっても私を必要としてくれる人がたくさんいるんです!^^」

「いまは本当にしあわせです(*^-^)」


どうしてこんなことが言えるのでしょうか?

同じ人間です。
自分も、キヨさんもキヨさんの彼も、
みんな同じ人間なのになぜ、こう言えるのでしょうか?

心に巣くう弱い自分を打ち破ってきたからです。

他人や物、外の条件に左右されない、これが絶対的幸福です。

だから、人生は勝つか負けるか、
歯の浮くような言葉でも、結局"勝つか負けるか"です。引き分けはなく、勝つか負けるかです。




>私は、その人が幸せならそれがその人にとっての「真の幸福」だと思います。

^^なるほど。。。。。。。。。。。。。。。
ではキヨさんが言う
     ↓
>例を挙げて考えましょう。
>祈ったのだけれど第一志望の就職先A社に内定を>もらえなかったあなた。
>あなたは第二志望の就職先B社に決まりました。
>入ってみて、周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!!
>後々良いことづくめだったとしても、

「だったとしても、」はそれこそいらない理屈になりますね。。
その人がその会社でしあわせなのですから、
「だったとしても、」は屁理屈になってしまいますよね・・・・・・
「だったとしても、」をつけるのは「そう思いたいだけ」という理屈になります。

>入ってみて、周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!!

いいじゃないですか!とてもいいことですよね。。
そこに「だったとしても、」は・・・・・・・・・・・・・
もう必要ないと言えるのではないでしょうか?




>頑張っても報われない人、頑張って報われる人、
>「必ず幸せがついてくる」と「信じている」だけだと思います。

ちがいますね。

「頑張っても報われないのでなく、報われるまで頑張る」です。
それが"しあわせになりたい"だから、
最後までやり通すというしあわせに対しての"誠実さ"ではないでしょうか?














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>和也さん

こんにちは!

辛いことから目を背けたら、面と向かって「信仰心が薄い」と言われます。
何も私のことを知らない人がいきなり幹部指導とかで、
「祈っていきましょう。必ず良い道に進みます。」と言っても、
応援してくれるのは嬉しいですが、果たして本当に人の事を
思って言う言葉でしょうか?

>>そうですね!
それが人間だし、普通です。普通でいいのだと思います。なんら不自然ではないです
てか、
苦しいことを、つらいことを、
「苦しいよ、つらいよ」って言っていいんだよ!^^

学会の人は、辛い事は辛いといっていいんだよ。
『だから』と続くのです。祈っていこうと。
『だから』なんて必要ないのに、言わなくていいのに、
相手の為と思っている事が、時には苦痛になることを知らないからです。
祈る事が、一番の解決方だと思っている人が多すぎます。

>>誰が真実の幸福者であるかが問題です。
お金がどうとか、学歴がどうとかではないのは
誰もがわかるとこですが・・・・

「真の幸福者」の定義はなんでしょうか?
私は、その人が幸せならそれがその人にとっての「真の幸福」だと思います。
お金とか学歴とかで幸せになれる人はたくさんいます。
それを真の幸福者でないと言うのはどうかと私は思います。
権力、お金、学歴、いくらでもそれは幸福になる手段であり、
決してランクが低い幸せでありません。
それは「そういう上辺だけのものにとらわれて真の幸福を知らないから」
という偏見だと思います。

>>よかれと思って言ったことが、逆に人を傷つけてしまうこともあるでしょう・・
よかれと思ってしたことが、迷惑になってしまうこともあるでしょう・・

よかれと思ってやったことが人を傷つける、
例えばしつこい選挙活動も入ると思いますが、
それが「考え方も十人十色」で済ませられる問題でもないと思います。
現に迷惑と言っている人はたくさんいます。
しかしそれをわかっていて選挙活動をする、これは問題です。

>>生活が厳しく大変なのに財務を強要することはありません。
「したほうがいいよ」とは言うでしょう。

なぜ和也さんは「したほうがいいよ」と言えるのでしょうか?
生活が苦しい、財務できない、なら
「生活苦しいのでできません。」「わかった。」だけで良いと思います。
「したほうがいい」という人がたくさんいるから、
「苦しくてもしたほうがいいんだよな・・・」と思ってしまう方が
大勢出てくるのだと思うのです。
結局は個人の判断に任されたとしても、
そこに「したほうがいい」という価値観がある以上、
個人の判断だけには任されないのです。

>>それでもなお
子供のことを想った尊い勇気が奮い起こした行動ではないでしょうか?

そのように「選挙活動をする=子供にいい結果がでる」
よいうサイクルを信じ、実行しているのなら私は何も言いません。
とてもお辛いと思います。子供の為にする行為は尊いです。
しかし、ならむやみに他人の迷惑を顧みずしていいのか?これは別問題です。
辛い気持ちを少しでも和らげようと、子供の為に活動しようと、
そう思う気持ちは凄いと思います。
私にはできませんから・・・選挙活動をする=子供にいい結果がでるという理屈が、私には理解しがたいからです。

>>もう少し深く考えてみませんか^^
では、時間があってたくさん彼と会えるのが
しあわせですか?

現にそれによって辛い気持ちを味わっている方がとても多いのです。
時間があって彼とたくさん会いたい、そう願うのは自然なことであって
特別な事ではありません。
彼と別れ、辛い思いをしているのは事実です。
辛い思いをしていなかったら私は何も言いません。
涙を流し、彼との別れを決断してきた人をたくさん見てきました。

>>この世の中の人間で、
生涯なにも苦しいことがなく、つらいこともなく、
苦難や困難といったことに無縁の人はいません。

そんな人がいたら、それこそ、その人は不幸です。

私は不幸だとは思いません。
何も不幸になる要素がないのですから、不幸になるはずがないです。
しかし、現にそんな人生はあり得ないと思うので、
そのような人間はいないと思っています。

>>それでもなお、
自分がそれに負けないでガンバるところに
必ずしあわせはついてくるのが道理です。

必ず幸せがついてくるという道理、
これは私にはよくわかりません。
頑張っても報われない人、頑張って報われる人、
「必ず幸せがついてくる」と「信じている」だけだと思います。

>>逆に
不真面目で不誠実で真剣に生きない人間が
どうしてしあわせになる道理があるのでしょうか?

どのくらい不真面目で不誠実かがわかりませんが、
現にそのような人でも幸せな人はいっぱいいると思います。
私たちは、不真面目な人が幸せになるのが許せないだけではないでしょうか。
自分はこんなに頑張ってる、真剣に生きている、あいつは不真面目なのに
幸せなはずがない、と思いたいのではないですか?
それは、人間にとって当たり前の心理ですし、特別だとも思いません。

>>しかし、活動が忙しくとも、彼や彼女と会い、愛を育んでいる人達がたくさんいるのも事実です。

現に活動が忙しく、愛を育めない人もたくさんいます。
むしろ、育めないひとをたくさん見てきました。
二人とも創価学会の場合はいいのですが、
片方が非創価学会だと問題が起こる確率がとても高いです。

>>自分として生きられる一回限りの人生だからこそ、
「負けるな!」「絶対勝利!」「頑張ろう!」が
必要なのは当然ではないでしょうか・・・

人はとても、とても弱い動物です。
だから自分を支えてくれる言葉もとても大切で

なぜ当然だと思うのですか?
そういう言葉が無くても、普通に暮らして幸せを掴んでいる方はたくさんいます。
弱い人間だから、自分を奮い立たせ、頑張るのは良いと思います。
それで自分が満足なら、私は何も否定しません。
しかし、それを他人に強要するのはどうかと思ってしまいます。
絶対に勝利しなくてはいけない、師匠にお応えしなくてはいけない、
自分だけのなかでそのような言葉を使えばいいと思うのです。

>>キヨさん
>『いかなる宗教団体も、国から特権を受け、
>又は政治上の権力を行使してはならない。』

創価学会は明確に答えております。
「公明党がへんなことをしたら絶対に支援しない」と。
す。

創価学会が国から受けた特権ではない、とおっしゃいましたが、
それは当然のことだと思います。それこそ権力を行使してますし・・・
あまりにも曖昧な憲法だなあ・・・と思ってしまうのです。
基準をしっかり決めてくれれば、わかりやすいのですが。
公明党を創価学会が監視している、ということは、
公明党は下手に学会に批判されるような政策は出せない、
ということではないでしょうか。

なんだかまとまりない文章ですみません^^;

こんにちは。

高校入学から彼女の出会いまでを書き込ませていただこうと思いましたが・・・
(全然聞きたくないのは100も承知です。。笑^^)
その前に少しだけ、、、、、

キヨさんは自分と同じできっと、一本気で正義感が強くてって面があるんだと思います。


>辛すぎることから目を背けて何が悪いのでしょうか。
>辛いことを嫌だと思うことは間違っているのでしょうか。

いいえ!!自分を見つめた証拠です。
だって、つらいことに 目を背けて何が悪いのでしょうか?!
つらいことが嫌だと思って何故悪いのでしょうか!?

キヨさんに迎合してるなんて思わないでくださいね。

ロボットではないのですから、そう思うのが人間です。普通です。

つらいことはどんどん「つらい!」と言うのは
決して間違ったこととは言えません。

自分なんか嫌なこと、つらいこと、
投げ出してしまいたいようなこと、
悲しいこと、泣きたいことは毎日の様にあります。
(10回に1回・・?2回くらいは逃げ出しちゃってるかも・・・・ははは(笑)www)




>我慢はいずれ破裂します。
>私はそうなりたくなかった。はっきり辛いと言いたかったのです。

そうですね!
それが人間だし、普通です。普通でいいのだと思います。なんら不自然ではないです。

てか、
苦しいことを、つらいことを、
「苦しいよ、つらいよ」って言っていいんだよ!^^




>宗教は、頑張るものなのですか?

宗教を頑張るというより、日々の毎日を"頑張る。"ということだと思います。

立場や肩書き、学歴があるから信心があるのではないです。
虚栄家の人、質素な人、また、学歴のある人、ない人、裕福な人、貧しい人等々。

誰が真実の幸福者であるかが問題です。
お金がどうとか、学歴がどうとかではないのは
誰もがわかるとこですが・・・・



>そんなにも友達に嫌われながら選挙活動をして、
お金をいっぱい財務に寄付して、

政治活動、選挙活動もする。
生きた宗教の証ではないでしょうか?

社会に貢献もしない観念的なことばかり言っている宗教はもはや死せる宗教です。

育った環境も違えば、考え方も十人十色であり、
選挙活動において、万人が万人、受け入れないこともあるでしょう。またそれが普通です。

よかれと思って言ったことが、逆に人を傷つけてしまうこともあるでしょう・・

よかれと思ってしたことが、迷惑になってしまうこともあるでしょう・・

財務については創価学会全員がしなければならないということでなく、自分の意思で決めることです。

生活が厳しく大変なのに財務を強要することはありません。
「したほうがいいよ」とは言うでしょう。


自分は
全く信心から離れ、信仰心もなかったときに
高校のときの顔も思い出せない同窓生から

(お互いの挨拶省略)
同窓生
「選挙・・・公明党・・をお願いします。政策はこうで、
こうなってるよ云々」

自分
「ふーん、、、そう・・でもなんで?」

同窓生
「・・・・・いろいろあって・・・」

自分
「いろいろって?」

同窓生
「子供が・・その~身体障害者で・・いままで・・選挙のたびに、活動するたびに・・子供が・・いい結果が出て・・」

自分
「ふーん。そうなんだ」

同窓生
「ははは(笑)信じらんないだろ、、、、」

自分
「。大変だな。まッガンバろうよ。・・選挙わかったよ・・・」

嫌われるかもしれない
笑われるかもしれない
怒られるかもしれない
罵声を浴びせられるかもしれない
無理だよ

彼の一念に巣くっている臆病な気持ちやあきらめの壁は、あって当然だと思う。

それでもなお
子供のことを想った尊い勇気が奮い起こした行動ではないでしょうか?

果てして自分にこんなことが出来るだろうか?
「俺には出来ねぇ」そう思いました。

そういう親の気持ちを
濁った色メガネで見、偏見だけで見ていた自分がとても恥ずかしかったです。
人間の魔性ほど怖いものはないと感じました。




>「活動が忙しくて全然彼と会えないんだって。」
>それは幸せですか?

もう少し深く考えてみませんか^^
では、時間があってたくさん彼と会えるのが
しあわせですか?

会社をクビになった。
いじめにあってる。
離婚した。別れた。
受験に落ちた。

これはふしあわせですか?

それだけを見ると、しあわせではないですね。
とてもつらいことです。

"しあわせ"というと
一般的に恵まれた環境の中で味わう快楽を想起しがちです。

困難に直面した時、逡巡し、立ち止まるか。
勇気を奮い起こして突き進んで行くか。

「だめだょ・・・・・もう・・・・」と
捨ててしまうか、捨ててしまわないか。

なにも安穏ばかりがしあわせなのではないです。

この世の中の人間で、
生涯なにも苦しいことがなく、つらいこともなく、
苦難や困難といったことに無縁の人はいません。

そんな人がいたら、それこそ、その人は不幸です。

必ずどんな人間でも大変なことにぶつかっています。
小さなつらいこと、小さな壁や小さな苦難を言えば
人生無数にあるのが現実ですよね・・・

そのたびにへこたれたり、負けたり、逃げたり、
捨ててしまってはいつ立ち上がるのでしょうか?

あの世でなく、いまここにある現実の社会で
苦難をゆうゆうと乗り越え、
困難をものともせず向かって行く。

これが真の"しあわせ"ではないでしょうか

そうはいっても
泣きたいこともあるし、つらいこともあるし、
納得できないこともあるし、
理不尽な目にあうこともあるでしょう。

それでもなお、
自分がそれに負けないでガンバるところに
必ずしあわせはついてくるのが道理です。

悪くなっていくわけがない、のではないでしょうか

逆に
不真面目で不誠実で真剣に生きない人間が
どうしてしあわせになる道理があるのでしょうか?

>「活動が忙しくて全然彼と会えないんだって。」

それはとてもわかります。つらいですね。
しかし、活動が忙しくとも、彼や彼女と会い、愛を育んでいる人達がたくさんいるのも事実です。

2人が2人のために
工夫し、考え、話し合い、語り、守っている愛です。
それが2人にとっての誠実な付き合い方だと思います。




>死んでから極楽浄土へ行けるとしても、
>(私は最初から死後の世界は信じていませんでしたが)
>自分として生きられる一回限りの人生を、
>そこまで「戦おう!!」「祈ろう!!」「頑張ろう!!」
>ってしなくてはいけないのでしょうか。

死んでから極楽浄土へ行けるというのは、念仏の教えですね。

"この世はダメなんだ"ガンバったって無駄。
死んでからあの世の極楽浄土へ行けるよう
念仏を唱えなさい。

これが法然の念仏です。

"死んでからより今のこの現実でしあわせになりたい"
こう考える人間の希望を否定し続けたのが念仏です。

現実逃避のまったくもっておかしな話です。
生まれた瞬間から、
この世はダメだからあの世の極楽浄土へ行きましょう。

はぁ!?お前なに?

「俺は死んでからよりも、まず今だよ。今をしあわせにならないでどうすんの?そりゃ頑張り続けられないときもあるけど、走って疲れたら歩きゃぃぃし、あんたがどう言おうとおいらは、この世でしあわせになりまーーーーーーーーーす(*^-^)ニコ」

また、坊さんがお経を唱えなければ故人は救われないとか成仏できないとか、それこそカルトであり、
サイコキネシスです。

自分も以前、「断固勝利!!」とか「不撓不屈!!」とか苦手でした・・・・・・
悪いことは悪い、ハッキリさせるのが苦手でした。

差しさわりのないことをいい、八方美人な人間が
受けがいいのはよく分かります。

自分が言ったことを
「あーそーですかーーーはいはいなるほどなるほど」
と受け入れてくれるのですからね。

正邪黒白をはっきりさせる言動は苦手でした。
実はその根底には自分が否定されるのを恐れているからです。

自分として生きられる一回限りの人生だからこそ、
「負けるな!」「絶対勝利!」「頑張ろう!」が
必要なのは当然ではないでしょうか・・・

人はとても、とても弱い動物です。
だから自分を支えてくれる言葉もとても大切です。

自分自身がなにかの希望を持ち、夢を持ち
意気を奮い立たせ「えいえいおー!」と鼓舞するのと同じことです。



釈迦ファンさん
>「2世・3世会員の方々の多くは」の後に「和也さんと違って」を補わせてください。

信心が深かったわけではないですよ。
全然やらなかったし、、、、

キヨさん
>『いかなる宗教団体も、国から特権を受け、
>又は政治上の権力を行使してはならない。』

創価学会は明確に答えております。
「公明党がへんなことをしたら絶対に支援しない」と。

例えば
【ドクターヘリの全国配備】
【奨学金の拡充】
【携帯番号ポータリビティ制度】
【がん対策基本法の制定】
【耐震改修促進税制】等
創価学会が国から受けた特権ではないのは明白です。





>和也さん

こんにちは!

政治に関して、様々なことをコメントしてくださりありがとうございました!
私は正直、政治に関してはまだ勉強中の身であまり詳しいことは書けません。
政策に関して、今記事を書いています。
それが和也さんへのコメントのお返事になればいいのですが、
是非読んでみて下さい。(もう少し時間かかってしまいますが^^;)
ただ、一つ言いたいのが、

「政教一致ではない」という部分です。
憲法で守られていようが、決して違反でなかろうが、
私にとっては正直あまり問題ではありません。
なぜなら憲法20条に書かれている

『いかなる宗教団体も、国から特権を受け、
又は政治上の権力を行使してはならない。』

この部分、私は正直よくわからないからです。
あまりにも曖昧すぎるのです。
どのような特権を受けてはいけないのか?
政治上の権力の行使ラインはどこなのか?
何の具体性も無く、ここに適当に当てはめて色々な人が
「これは政教一致だ!」とか「いや!政教一致ではない!」と
言っているだけに過ぎないと思うのです。
基準が曖昧なのだから、そこから出てくる考え方も尚更曖昧です。
こちらとしても、相手が自分の都合の良いように解釈することが可能なため、
「それは違う!」とはあまり言えないのです。
だから問題視なんてそもそも出来ないのです。

ただ、単純に考えて、
政治に知識もない学会員が選挙を頼むのは個人的にどうかと思います。
学会の方は、他党に攻撃的すぎるのです。
自分を「正しい」と信じ、疑わない。相手は悪党だと言って
それを大げさに言いふらす。
こういう政策を実現しているのです!と言って、
しかしそれを疑問視する声が聞こえると聞く耳を持たない。
「創価学会が支援している公明党が絶対正しい」という
先入観を持っている人が多すぎるのです。
和也さんは実際に色々調べられて知識を持っているかもしれませんが、
「このような政策をやっています」と言って、そこで納得してその党に入れるか、
それとも「本当にちゃんとやっているのか調べよう」と思うのは大違いで、
学会員には表面的に良い政策をアピールしている人が多く見られます。

現に私の周りの女子部は、あまりにも公明党賛美で
他党の政策を知ろうとしません。頭から全否定です。
そのような態度が変だと私は言いたいのです。
創価学会でなくても、本当に公明党に入れるのか。
正直、創価学会でなかったら公明党へ入れない人は
多く存在するでしょう。

大切な選挙だからこそ、真剣に考えなくてはいけないのです。
他党を頭から否定するのではなく、自分の支援している党のことも
しっかりと調べ、そして頼むべきだと思います。

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こんばんは

>「そこがわからないんだよ。思いっきり政教一致だし・・・」

思いっきり政教一致ではないのですよ。
まして、いまの民主主義でそんなのはありえませんね。

創価学会=公明党=政教一致
これは間違っていますよ。


憲法第20条第1項に定める
政治上の権力の行使に該当せず、政教分離の原則に抵触するものではありません。

憲法が定める政教分離原則の意味は、
宗教団体の政治活動を禁止しているということではありません。

政教分離の原則とは、
信教の自由の保障を実質的なものとするため、
国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、
または関与することを排除する趣旨である。
それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではないと
国会の見解が出ています。

規制対象としているのは、【国家権力】の側です。

創価学会が公明党という政党を支援することは、なんら憲法違反になりません。 

国家権力が、ある特定の宗教を擁護したり、
国民に強制するようなことを禁じているのが
政教分離原則です。

戦前、戦中に軍事政権・国家が、一定の国家神道を強要したり、
天皇陛下を神に祭り上げ、思想統制を図ろうとしたことなどです。

国家神道、特高警察等
これこそが政教一致なんですよ。




政治、選挙はとても、とても大切です。
自分達、私達国民の生活に直接影響してくるのが政治だからです。

「関係ねえ!!」
とは言えないのが普通の人間です。


無関心は日本国は勿論、自分のためにも世界のためにもなりません。
自分達の国であり、自分達の生活なのですから・・・


いちばん最初の書き込みで
>決して自分達のためだけでなく、社会のため、

これは
"国民のよりよいの生活のために"も含まれています。
観念的なことばかり言っているどっかとは違い、
しっかり行動し現実の社会で示しています。

この行動とは
"よりよいの生活のために"という心が意識を作り、意識が態度を作り、
態度が行動を作るということです。

そして、その結果です。
下記は現実に公明党がやってきたことです。

【児童手当の乳幼児加算】
今年4月分から0歳~2歳の第1、2子の児童手当支給額が月額5千円から同1万円に倍増。
今回の拡充を連立政権参加後の4回目の法改正として実現。
現在、小学6年修了前まで全児童の約9割が支給対象となっています。

【出産育児一時金】
妊娠、出産に掛かる経済的負担を軽減するため、
健康保険から支給される出産育児一時金が、
昨年10月から35万円にアップ(従来は30万円)

【育児休業制度の拡充】
今年10月から育児休業給付率が
現行の休業前賃金の40%
(休業期間中30%職場復帰後10%)から
50%(休業期間中30%職場復帰後20%)に
引き上げられます。

【年金支給の時効撤廃】
年金の支給漏れが判明した場合に
法律で5年間の時効を撤廃し、過去にさかのぼって年金を受け取る事が出来る。

【高額医療費の負担軽減】
入院時の医療費が高額になった場合の支払い方法が
今年4月から見直され
70歳未満の患者の窓口負担は高額療養費制度における自己負担限度額だけ支払えば済みます。
(70歳以上はすでに同様の取り扱いです)

【バリアフリー減税】
高齢者らが住む住宅の増改築で階段の手摺の設置などを行えば
工事全体のローン残高のうちバリアフリー改修費(上限200万円)の2%、
それ以外の部分は1%を5年間、所得税額から控除

【女性専門外来の拡大】
乳がんなど女性特有の病気や症状に対して、
女性スタッフが中心となって対応する女性専門外来の普及

【女性専用車両】
痴漢被害などから女性を守る女性専用車両。
現在では全国30の鉄道会社、計75路線で導入

【高齢者雇用】
65歳までの雇用延長を企業に義務付けた改正高年齢者雇用安定法を昨年4月に施工

【ドクターヘリの全国配備】
【奨学金の拡充】
【携帯番号ポータリビティ制度】
【がん対策基本法の制定】
【耐震改修促進税制】
【偽造・盗難カード対策】
【スクールカウンセラー】
【障害者の自立支援】
【資金繰り円滑化借り換え保証制度】
【マンモグラフィ検診】
【資本金1円から会社が起こせる】
【義務教育の教科書無料】
【いじめ相談】
【ジョブカフェの設置】
【社会保険庁の廃止、解体】
【住宅セーフティネット法】
その他


やれもしない、やりもしない政策を
選挙目当てでマニフェストさえコロコロ変える無責任さ、節操の無い、国民を欺くエセ党とは
違うのは誰が見ても歴然ではないでしょうか・・・


児童手当の拡充にとことん反対していたのに、
おいしいこと言っている民主党には子育て支援を語る資格はない。

育児休業制度の拡充にも反対しているのに
なぜ、「国民の生活が第一」と言えるのでしょうか???

自分には厚顔無恥としか思えません。

年金100年安心フプラン(2004年改正)の時に想定した財政見通しを上回っており
積立金を切り崩す予定のところが、逆に積み増しております。

昨年末、
日本の将来推計人口で将来の出生率が下方修正された事を受け
"100年安心フプラン"は破綻も同然と批判されましたが、
年金の収支は出生率だけでなく、積立金の運用利回り、物価上昇率、賃金上昇率など
経済、雇用の動向に左右されます。

つまり
年金財政は総合的な見地からの判断が必要で、
一時の出生率だけで一喜一憂するものではありません。

財政状況は堅調です。
景気回復を背景とした年金積立金の好調な運用などで
2005年度の厚生年金と国民年金の収支は2004年改正時の見通しを大きく上回っています。

年金積立金は2005年度に2.1兆円積み増し、残高が150兆円を超えております。

これは現実の事実です。

>決して自分達のためだけでなく、社会のため、
だからこそ政治進出は至極当然なんです。

悪党が政権を取れば
いちばん最初に被害を受けるのは国民です。

極端に言えば
【消費税50%と決まれば消費税50%】これが政治です。

だから
正しい知識と正しい情報で正しい判断をしなければなりません。


今日はお話が横道にそれてしまいました。。
ゴメンなさぃ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

一気に書き込みましたので
改行ミス誤字脱字ありましたら
ゴメンなさぃ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


























>釈迦ファンさん

こんにちは!

>>「有る」と思っている人に「無い」と言っても軋轢を生みますし、「有る」と思っている人同士でも、その捉え方が違うとぶつかります。
なので、「有る」と思っている人が人間の認識に限界を感じ、「人によって見え方が違う」ということを受け入れてくれれば平和になりそうなのになあ、ということでした。

なるほど、こちらこそ捉え方を間違えてしまってすみません(>_<)
そうですね、私もそう思います。
私は無いと思っていますが、有る人を否定なんてしません。
お互い良い部分がありますし、悪い部分もある。
そこを見極めて仲良くできたらいいですよね・・・

>和也さん

こんにちは!ご回答ありがとうございました!

>>ぃぇ、、、、、、カッコつけて虚栄を張り、
 あーだこーだ能書きだけの、
 振り回すだけ振り回すぶんぶん屋
 いけいけだけの自分に気付きよかったです。^^
 (笑)

その自分に気づいた時に、なぜ「活動しよう」と
なったのでしょうか。そこの繋がりをよければ
教えていただけますでしょうか。

あと、コメントは信心の話でなくても全然構いませんよ(^^)

言葉足らずで、誤解を生んでしまっているようなので、2点ほど補足させていただきます。

> キヨさん
私自身は、「唯一つの真理」の存在については、いい加減で申し訳ありませんが、「わからない」というスタンスです。

言いたかったのは以下です。
「有る」と思っている人に「無い」と言っても軋轢を生みますし、「有る」と思っている人同士でも、その捉え方が違うとぶつかります。
なので、「有る」と思っている人が人間の認識に限界を感じ、「人によって見え方が違う」ということを受け入れてくれれば平和になりそうなのになあ、ということでした。
反対に、「無い」と思っている人も、「自分には見えていないだけかもしれない。」という疑いを持てば、もっと良いと思います。
ややこしくてすみません。

> 和也さん

> >幼い頃から学会コミュニティー内にいるため、
>  あえてそこを出ようとは思わないという
>  スタンスなのかな
>
> ちがいます。
> 大人ですから、いくら幼い頃からといえど、
> やる、やらないは自分の意思と力で決めます。

私が、
> というのは、私の勝手なイメージですが、2世・3世会員の方々の多くは、「特に信心が深いわけではないのだけど、幼い頃から学会コミュニティー内にいるため、あえてそこを出ようとは思わない。」というスタンスなのかな、と思っているんです。
と書いたのは、和也さんを指してのことではありません。
「2世・3世会員の方々の多くは」の後に「和也さんと違って」を補わせてください。

不愉快な思いをされていたら申し訳ありません。 m(_ _)m

なお、私は「あえてそこを出ようと思わない」スタンスも尊重します。

こんにちは^^


>お母様の姿を見て信心を真剣に
 しようと思ったのですか?

ちがいます。


>幼い頃から学会コミュニティー内にいるため、
 あえてそこを出ようとは思わないという
 スタンスなのかな

ちがいます。
大人ですから、いくら幼い頃からといえど、
やる、やらないは自分の意思と力で決めます。



>どうして弱いのでしょうか?では私は弱いでしょうか?
 自分はいまよりずっと、、、弱かったです・・
 
>仮に弱いとしても、それがいけないことなのでしょうか?
 いけなくないと思います。
 弱いままではいけないんだと思いました。
 
>そこまで自分を「弱い」と決め付けなくてもいいと思うのですが・・・
 ぃぇ、、、、、、カッコつけて虚栄を張り、
 あーだこーだ能書きだけの、
 振り回すだけ振り回すぶんぶん屋
 いけいけだけの自分に気付きよかったです。^^
 (笑)



中学時代は
中等部とかの集まりに参加した記憶はほとんどありません。
(4~5回は出たんだろうな。って記憶です)

ただ中学3年の時は(う~~~ん、、たぶん1~2ヶ月?)
勤行題目はしっかりやったつもりでした。
(たまにやんない。気の向いた時だけ気合入れて)^^;

受験で。。。
どうしても、野球の強い高校に行きたかったんです。
【熱闘甲子園】!!!!!!!!!
カキーン!""( ・ー・)_/彡 ヾ(;゚◇゚)ゞホ、ホームラン!   ~ °

憧れてました・・・・・・・あの熱気、あの大舞台。
あそこの桧舞台がすべてで、
甲子園に行けないのなら意味がないと・・


だから「なんみょう」をしました。
受かりたいから。

第一希望のJ高校!野球はかなりの強豪でした。

隣の中学で、
大エースと評判の(もうすでにプロのスカウトが来てるような)
Hも第一希望です。



ラジオ聴きながら無駄に起きて勉強らしいことを
しているのが数ヶ月。。。
(集中力なぃし。。w)


受験当日、憧れのJ高校へ。


手応えばっちり!スラスラと解けました。
(合格だろ!!かなり出来たぞ!(-_☆)キラーン)

本当の本当に
"キラーン"`*:;,。・★ラリホー☆・:.,;*
って感じでした(笑)、、、、、、

いわゆる
キタ━―━―━―(゚∀゚)━―━―━―!!
です。


。。。。。。




何日かして




封筒が




届き




不合格..........落ちました
(.............まじかょ...............................)
、.';・、.';・、.';・、.';・、.';・、.';・、.';・、.';・、.';・
なんで?どうしてだよ?




結局




H高校へ
当時甲子園出場は5回くらいの高校でした。


隣の中学のHは見事合格し、自分はH高校へ






全然信心の話でなくてスミマセン、、、

(キヨさん。。仕事やいろいろで・・なかなかこちらに来れない時もありますが・・書き込めるときは必ず書き込みますね。^^)










 




>釈迦ファンさん

こんにちは!

>>創価学会にとって、池田氏の後継者問題は深刻でしょうねえ。
一種の伝統として再構築することが出来るか、あるいは分裂・衰退するのか・・。

池田氏が神格化されて拝められるのは間違いないでしょう。
ただ、池田氏並のカリスマ性を持った後継者は難しいかもしれませんね・・

>>「唯一つの真理なんてない」は無理でも「真理は唯一つだが人によって見え方が違う」というようなスタンスを徹底して、他人を見下げたり排除したり攻撃したりするようなことをしないで済むようになれば良いなあ、と夢想しています。

なるほど、釈迦ファンさんはこのような考え方なのですね。
私は唯一の真理なんてないと思っている立場なので・・・
ただどんな方法でも、他人を見下げたり排除したり攻撃したりするようなことを
しないで済むようになればいいですね。

創価学会にとって、池田氏の後継者問題は深刻でしょうねえ。
一種の伝統として再構築することが出来るか、あるいは分裂・衰退するのか・・。

> 和也さん
お辛いご経験をされているんですね・・・。

私も、信心を深められた(or深めようと思われた)理由を知りたいです。
というのは、私の勝手なイメージですが、2世・3世会員の方々の多くは、「特に信心が深いわけではないのだけど、幼い頃から学会コミュニティー内にいるため、あえてそこを出ようとは思わない。」というスタンスなのかな、と思っているんです。
そんな状況で、しかも創価学会に疑問を持ちたくなるような情報も氾濫している中、どういったきっかけ・思いで、「ガンバって創価学会の活動を」していこう、と思われるのか、興味があるんです。

興味本位で申し訳ありません。 m(_ _)m
答えにくいような事であれば、結構です。

私は、創価学会員の方も、無宗教の方も、カトリックの方も、仏教他諸宗派の方も、「唯一つの真理なんてない」は無理でも「真理は唯一つだが人によって見え方が違う」というようなスタンスを徹底して、他人を見下げたり排除したり攻撃したりするようなことをしないで済むようになれば良いなあ、と夢想しています。
自分の身を照らしても、言うは易し行なうは難し、ですが。

>和也さん

おはようございます!
和也さんのご経験、このブログに載せてくださりありがとうございました!
載せられる範囲で是非載せてほしいと思っています。

>>むしろ、、、、、
お菓子が食べれるという甘言に釣られて
少年少女部の集まりに、たまぁ~に参加してたくらいで。。
「めんどくせー」みたいな(笑)
(でもYちゃんっていうコがちょっと好きだった)笑

私が出ていた会合は、あまりお菓子が出なかったので
それに釣られていくことはできませんでした。
好きな人も既に学校にいたので・・・(笑)

それに最後まで読んで、私と和也さんの家庭環境の違いに
私には理解できない辛さ、苦しさがあったんだと痛感しました。
私も色々とありましたが(それは後々書こうと思っています)
お母様の信心深さ、お父様の酒乱、お姉さまと和也さんの
お母様を守る気持ち、お母様はその中で何かしらの
信心の確信を掴んでいたのでしょう。

和也さんは、お母様の姿を見て信心を真剣に
しようと思ったのですか?
それとも何かほかに理由があるのですか?
差し支えなければコメントしていただけると幸いです

おはようございます。キヨさん
こんな時間にスミマセン。。。

お返事までありがとうございました。

自分は全然!活動していませんでした・・・・・・・

むしろ、、、、、
お菓子が食べれるという甘言に釣られて
少年少女部の集まりに、たまぁ~に参加してたくらいで。。
「めんどくせー」みたいな(笑)
(でもYちゃんっていうコがちょっと好きだった)笑


母が創価学会だったので、
(父は名前だけ?猛反対してましたね・・)
自分もいつのまにか知らぬ間に創価学会に
入っていました。


小学校1、2年の時に
家に誰もいなくて・・さびしくて・・

たぶん・・
はじめてお題目っていうのをあげたと思います。

「なんみょーしなさい」って
言われたこと一度もないけど、
自然と・・しちゃいました。(T人T)「なんみょー」

「ママが早く帰ってきますように・・」って。
(いまじゃ"ママ"なんて言うのも恥ずかしいですけど)

そうしたら15分くらいして買い物から帰ってきた!
いま思えば・・、、、、.....偶然だろーな。


小学校4年の時に
万引きして・・学校中から堰を切ったように
「どろぼうどろぼうψ(`∇´)ψ ウキョキョキョキョ」
って言われて・・つらかった・・ぼろぼろに・・

って自分が悪いんじゃん!!!!(笑)


困った時の神頼み、みたいな感じで
このとき生涯2度目の「なんみょー」

「みんなにどろぼうどろぼうって言われなくなりますように」
かなり真剣だった。。。。。。。。。w

一生言われ続けられる雰囲気があった。。

でも、
1週間くらいしたらピタッと止まった。
一切の一言も消えた。雲散霧消の如くに

(生涯2度目の「なんみょー」って言ったけど・・実は3度目だったかも!?自分、虎が好きで(はぁ?とらぁ???なんのこっちゃ???)、「生まれ変わったらトラになれますように」って。。まぢ。。爆w)(笑)


で・・・・・・・・・・・まだぃぃ?(笑)

小学校5年の時に
A.Kっていう、おかっぱのとっても可愛いコがいて
土屋先生(はぁ?だれ?初恋の人)より
好きになりました↑↑↑

A.Kちゃんは自分のことなんて眼中にないのに、
自分はバレンタインデー目指して
絶対に「チョコレートもらうぞぉ~!」と
かなり意気込んでました・・・・無謀とはこのこと・・

「A.Kちゃんからチョコレートもらえますように」
またかよ!!(怒)

う~~~ん、、、、それから10日?半月?くらいして
放課後の玄関でたまたま、
自分含めた男子2人とA.Kちゃん含めた女子2人と
この世のものとは思えないくらい楽しく愉快に
遊べました。。。
キャー ヾ(≧∇≦*)〃ヾ(*≧∇≦)〃 キャー
4人こんな感じでしょうかね。。。(笑)wwww

帰り際A.Kちゃんが
「おもしろかったぁぁぁ~~(*^-^)ニコ
・・・・・・・ね!ね!ちょこれ~と。。あげよっかぁ、、?」

自分
「まぢ!?くれーーーーー!!!!!!!!」
(*^m^*) ムフッ

(この辺、イメージ大切にしたいので顔文字多用ですけど許してくださいね)

自分、ここで安心してしまったのか、燃え尽きたのか・・
このさき記憶がないです。。。w

ただあるのは、結果としては
もらえなかったんだ・・・・がっくし・・・・(笑)
ははは(笑) ^^;


勉強はからっきし駄目。
アホでやんちゃで野球が好きなスケベ少年時代。

こんな感じだったけど
家庭は小学校3年からはずっと毎日、毎日・・
オヤジが酒乱でおふくろをぶん殴ってた。

階段から引きずり落としたり
ペンチやハンマーで殴ってた。
部屋中血だらけになって隣の空き家に逃げ込んでた。

おふくろと姉さんと裸足で逃げたり、
車の中で寝たり

おふくろはおやじに些細なことでも、
つねられたり、蹴っ飛ばされたり
人前で罵声や罵詈雑言を浴びせられてた。

夜中にずっと正座させられ延々と小言を言われ続け
酒ぶっ掛けられ、小突かれてた・・

姉さんと自分は眠い目をこすって交代で
おふくろが殴られても止めに入れるように
障子1枚隔てて見張ってた。

自分と姉さんがケンカすると必ず
おふくろが責められる................


おふくろはいつもオヤジのことを祈ってた。
畳が擦り切れへこんで足の形になってた。

身をよじり、真剣な故に鬼気迫り、
鬼の形相で祈ってた。

おやじはそれを見つけると
「他力本願がぁッ!!!!!」と
吐き捨てるようにバカにしてた。

だからおふくろは隠れて「なんみょう」してた。






キヨさんの大切なブログで
自分の少年時代を書き込んでしまいましたが、
どうしても......................
書いておきたくて。



















>和也さん

はじめまして!コメントありがとうございます。

>>自分はガンバって創価学会の活動をしていきます。

私は和也さんの活動する気持ちを否定しません。
自分も以前活動家でしたし、この信仰によって救われる人が
いるのならそれは素晴らしいと思うからです。
なので頑張ってください!

しかし、他人を無理矢理巻き込んでの活動はどうかと思います。
学会活動をとても迷惑ととらえる人も多いです。

>>結局それはただ単に、
都合のいいように理由をつけていた
弱い自分だと気付いたからです。

決して自分達のためだけでなく、
社会のため、世界平和のために
多くの人たちが行動を起こしています。

平和、文化、教育の世界的な広がりは勿論、
自分自身への挑戦や成長

どうして弱いのでしょうか?では私は弱いでしょうか?
仮に弱いとしても、それがいけないことなのでしょうか?
そこまで自分を「弱い」と決め付けなくてもいいと思うのですが・・・
平和、文化、教育のため、一生懸命に考えることは
とても素晴らしいことだと思います。
しかし、自分の祈りが世界の平和に役立っているなんて、
私は実感したことがありませんでした。
「自分は祈りきった、この思いは届いている!」なんて、
ただの自己満足の世界だと思っているのです。

会館をたくさん建ててその中で世界平和をお祈りする。
その建てる費用を困っている人へ寄付して自宅で祈る。

どちらが多くの命を救えますか?
祈りで世界が平和になる根拠を、私は知りたいのです。

>>御書はお持ちでしたよね。

あります。親のものなので処分できませんでした。

>>経文どおりに大難がきても

御書には「この法華経を実践すれば難が起きる」と書いてありますよね。
こう教えられているのは、学会が発展してきたことに大きく関係があります。
「難が起きる=活動を実践している」の証明となるからです。
なので批判されても、自分たちが正しいと思ってしまいます。
「なぜ」批判させているのかを真剣に考えられません。
何も批判する要素がないのに批判するほどマスコミも暇ではありません。
(中にはそういう暇な人もいるかもしれませんが)
もう少し、周りの考え方に耳を傾けてもいいのではないかと私は思います。

自分はガンバって創価学会の活動をしていきます。


以前はいろいろ納得できないこともありました。

結局それはただ単に、
都合のいいように理由をつけていた
弱い自分だと気付いたからです。

決して自分達のためだけでなく、
社会のため、世界平和のために
多くの人たちが行動を起こしています。

平和、文化、教育の世界的な広がりは勿論、
自分自身への挑戦や成長


キヨさんのブログを読み、思ったことがあります。

【此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘(おくじふもう)の人は希(まれ)なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり】

【法華経を聞いて受ける人は多くいます。しかし、聞いて信受し、経文どおりに大難がきても、法華経を憶い持って忘れない人はまれなのです。御本尊を受けることはやさしいのですが、持ち続けることはむずかしいのです。それゆえに成仏する肝要は、持ち続けることにあるのです。】
(四条金吾殿御返事[此経難持御書]、1136頁)

御書はお持ちでしたよね。








>仏法とはさん

おはようございます!
そうですね、日蓮については、私が自分の一生のうちに経験しないであろう苦労を多分にしてきていると思います。
その中で感じたこと、思ったことは様々でしょう。
「悟った時には本当に悟っていないもの」のことですが、
「悟る」という概念が私には理解しがたいものなのです。
その基準・マニュアルみたいなものがあれば話は別なのですが、
その人が自分で「悟った!」と言ったとしても、
それはその人自身の中の基準であり、万人とは分かち合えないものだと思います。
どんなに悟りを開いた人がいようと、その人の基準、
仏法とはさんの言葉を借りれば「この辺でやめておこう」というものなのではないでしょうか。

>>日蓮宗は例外ですが、法華特に「創価」は走り続けていないと教団が分裂・消滅してしまう可能性のある団体です。題目を唱えれば、「何だか前進した高揚した気分・恍惚感」を感じます。それが魅力になって創価信者はやめられないのです。

とのことですが、私もその通りだと思います。
「戦い続ける・勝ち続ける」ことがモットーとなっており、
逆に「負ける」ということに非常に敏感になってしまい恐怖を覚えてしまいます。
それが、離れられない理由でもありますね。

日蓮は極端の排他主義で他宗を批判しため、佐渡などに流されました。さぞ長期間苦労したと思います。晩年には、それなりの悟るものがあったでしょう。
大作も、日本の仏教団体に加盟している教団の関係者もそうです。苦労して修行をしてわかったのは「人間の顔には目と鼻と口がついている」ということです。このことは、キヨさん大事ですよ。悟ったと思ったときは本当に悟っていないものです。真理は奥深く届かないので、この辺でやめておこう。というのが宗教関係者の立場です。東大をでてエリートだと思っていたが、歳を取って感じたものは自分は「普通の人間」「はだか虫」だったと思うのと同じです。
「怪力乱神を語らず」と論語にありますが、私は「縁があって体験したもの」は他言せずあの世に持っていくつもりです。皆、宗教関係者はそうではないでしょうか。「縁」があればの話です。
日蓮宗は例外ですが、法華特に「創価」は走り続けていないと教団が分裂・消滅してしまう可能性のある団体です。題目を唱えれば、「何だか前進した高揚した気分・恍惚感」を感じます。それが魅力になって創価信者はやめられないのです。創価の立場としては異論もあると思いますが、広い立場で見れば「念仏」を唱えると同じ行為です。それではこの辺で。

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こんにちは、キヨです。 周りから様々な影響を受けて無宗教になりました。 このブログは、恋人や知人が創価学会で苦悩している 人と学会の方々にあてたブログです。 記事はあまり順番を気にして書いていないので、好きなタイトルからご自由にお読みください。リンクはご自由にして頂いて結構ですが、その際コメント欄で教えて下さいね。

キヨ

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