創価学会の私と無宗教の彼

学会3世・活動家だった私。元恋人に影響され、無宗教になりました。

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今ふと思い出したのですが、
私が小学生の時に御書講義にとある地区部長の家へ行きました。
小学生なので内容はとても簡単だったと思います。
地区部長・小学生5~6人・小学生の親3人ぐらいいたと思います。
私の母は来れなかったのですが、行く直前に言われた一言。

「あのおじさん、ちょっと変な所あるから気をつけなさいね。」

この言葉の意味がよくわからなかったのですが、
とりあえず地区部長の家へ行きました。

御書講義を受けていると、熱の入った講義に空気が熱くなります。
講義はどんどん白熱してきました。
方言が混じったよく聞き取れない口調で講義する部長さん。
すると、

いきなり私の手を握り締めて「キヨちゃんわかるかい!?」

私は怖くて「は・・・はい」みたいな感じでした。
そのまま手を握るのは続行。おまけに顔をどんどん近づけてくる始末。
今考えると非常に不快な思いをしました。

帰ってきてお母さんに

「キヨ大丈夫だった?普通にできた?」

ともう一度言われて初めて言葉の意味がわかりました。

これって・・・完全にセクハラなんですけど。

女児童の手をいきなり握り締めて顔近づけて
わけわからない口調で講義するのはやめましょう。
ただの変態だと思われます。

っていうか、お母さんわかってたの!!???

って感じなんですけどね。
よくそんな場所に我が子を連れて行く気になるものです。
被害に遭ったのは私だけじゃないし、
なんでこんな人が地区部長していたんだろ・・・と今更ながら思います。

でもその部長さんはお金持ちで、折伏もかなりやってました。
いつも座談会で「新しく入会された方です~。」と紹介してましたし。
きっと財務もたくさんしていたでしょう。
実績があればその人の人格はどうでもいいのでしょうか。

完全な人事ミスです。

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皆さんこんにちは!
最近急に涼しくなってきましたね。
今日のテーマは私の祖父・祖母についてです。

私が実家に帰るのを、祖父母はいつも楽しみにしてくれています。
「遠く離れているからキヨちゃんのことが心配なんだよ。孫は可愛いから。」
といつも言ってくれます。
そして・・・

「キヨちゃんが早く学会に戻れるように、
いつも祈ってるんだよ。」


いつも私の心に重くのしかかる言葉。

祖父母は本当に私のことを可愛がってくれます。
身体が弱いので外に一緒に出かけることはなくなりましたが、
帰るといつも暖かい笑顔で出迎えてくれる祖父母。
私が完全に無宗教になったと言ったら、
私が創価学会を止めたいと言ったら、
この二人は深く傷つき、その傷は癒えることはないでしょう。
なので私は祖父母に、

○学会を止めたいということ(脱会したいということ)
○創価学会はもう全く信じていないこと

この2点は絶対に言わないと決めました。
学会の話をしても「そうだね。」と軽く受け止め、
祖父母の前では題目三唱ぐらいはしようと思っています。

「そんな本心を隠しているのは真の優しさじゃない」

とおっしゃる方もいるかと思いますが、これが私なりの優しさです。

人間には、言うべき時と言わなくても良い時があると思います。
むやみに本心を言って相手を深く傷つけるよりも、
黙っていた方が良い場合もあります。

祖父母はもう高齢です。
考えたくありませんが、あと何年生きられるかわかりません。
二人にとって創価学会の存在の大きさは、
私が思っている以上に大きいものであり、
また支えとなっているものだと思います。

できるだけ傷つけたくない
でもその理由だけで学会には戻れない


その理由だけで戻ったら、「自分の為の信仰」では
なくなってしまいます。

私と祖父母は、永遠に本心で語り合うことはできないでしょう。
それが創価学会に生まれてしまった私の運命なら、
このやりきれない思いを受け入れていくしかありません。

なんだか愚痴みたいになってしまいましたね。すみません^^;
ただ、こんな思いをしている人が他にもいるのだと思うと、
さらにやりきれない思いでいっぱいになります。

今日のお昼にぼーっと考えていたのですが、
結婚してどちらかが活動家の場合、どちらがまだいいのかな?ということ。

奥さんがバリバリの活動家の家庭
旦那さんがバリバリの活動家の家庭

一般的な家庭を想像してみると、
奥さんが専業主婦、旦那さんはお勤めですよね。
子供は1人か2人とかで、犬を飼ったり。
ちょっと想像してみました。

<奥さんが活動家の時>
朝早く起きて勤行に新聞配達、家事をしてから午前中の唱題会。
お昼は適当に済ませて婦人部の会合へ(あるかわかりませんが)、
家庭訪問して犬の散歩のついでに新聞啓蒙&選挙活動&折伏。
夕飯の準備してからすぐ夜の会合へダッシュ。
帰ってきてから勤行して学会の本を読みつつ就寝。

書いていて思ったのですが、これ、うちのお母さんの1日スケジュールでした。
では旦那さんがバリ活動家の場合・・・想像が難しいな。

<旦那さんが活動家の時>
朝起きてまず勤行、聖教新聞を読む。
朝ご飯食べて出勤。電車の中では学会書物の読書(それか聖教新聞?)。
家に帰る間もなく会合へ参加。帰ってきて夕飯を食べる。
勤行をして就寝。休みの日は一生懸命新聞啓蒙&選挙活動&折伏&会合。

う~む・・・
かなり極端でしたかね?
でも、これだと『創価生活一色』ですね。
こんな両親を見て育った子供は疑いもせずに学会が正しいと教えられ
すくすくと育ちます。子供は親を選べませんからね・・・

結果的に、どっちがまだいいとかわかりませんでした。
ただ傾向的に・・・家の大黒柱はやっぱり旦那様なので、
奥さんが活動家の方が財務とか少なくて済むような気が。
(何だかんだ言って旦那様の許しがいるため)
両親がバリ学会員の場合は・・・めっちゃ大変です。

みなさんこんにちは!
相変わらず女子部からのメール攻めにあっています。
内容は決まって会合案内です。

いつも思っていたのですが、座談会とか地区の小規模な会合ではなく、
もっと大規模な会合になると女子部が皆同じに見えます。

○皆カラフルなパステルスーツ
○幹部になればなるほどショートカット率アップ(おでこを見せての)

聖教新聞に載っている女子部にまでなると、
上記2点の項目は9割方該当です。

う~ん・・・いや、いいんですけどね?
なんでかな~と思って。

私は黒髪ロングなので、ショートカットとは
残念ながら無縁です。切れと言われた非常に困ります。

せっかくここまでキレイに伸ばしてきたのにぃぃぃ~_| ̄|○ 
と本気で凹みます。

なんでなんですかね?
誰かご存知の方いらしたら教えていただけないでしょうか?
何気にずっと気になっているんです・・・。


昨日母親に、「引越し先の住所は絶対に学会員には教えないでね」
とお願いしました。案の定すごい怒られましたが。

母 「引越し先の住所がわかったら統監カードまわさないとね。」

という感じに始まった会話。
もうすぐ言おうと思っていたので言ってしまいました。

  *******************

キヨ 「あのさ、私学会員には住所教えないつもりなの。」

母 「は?何言ってるの?どういうこと?」

キヨ 「だから、統監カードには新しい住所載せないってことだよ。」

母 「何でそんなことするのよ!?それはおかしいわよ。」

キヨ 「何がおかしいの?」

母 「あんたね、統監カードをまわさないってことは、あんたが
  まだその地区にいることになるんだよ?実際引っ越していなくなるのに
  それは地区の人に迷惑でしょ!!」

キヨ 「引越しすることはちゃんと言うよ。住所を教えないだけだよ。」

母 「なにそれ?意味が全然わからない。どうして?」

キヨ 「学会の人に住所を教えたら、必ず家に来るでしょ?
   私はそれが嫌なの。だから教えないつもりだよ。」

母 「今までそうやってきて何も問題なかったじゃない!」

キヨ 「いやいや、かなり学会員の家庭訪問が多かったよ。
   私はこれからそれが嫌だから、教えないの。
   今私は活動してないし、する気も起きない。
   これから引っ越す先は、私と彼で借りる家だから、
   私だけの判断で住所を教えるわけにはいかないの。
   学会員の訪問の対応を彼がすることになるかもしれないんだよ。」

母 「あっそう。じゃあ勝手にしなさい。統監カードはお母さんの地区に
  まわしてもらうわ。すごい迷惑だけどね。」

キヨ 「じゃあそうするよ。実家に戻してもらうよう私から言っておくから。
   あと、私から女子部に引っ越すこと言ったとしても、たぶん
   お母さんに電話がかかってくるからその時に住所絶対に教えないでね。」

母 「教えませんよ。」

キヨ 「ありがとう。じゃあ女子部には言っておくから。」

  *******************

他にも色々言われましたが、こんな感じの会話でした。
とりあえずこれで引越し先の住所には学会員は来ないでしょう。
会話途中に母が「統監カードに”訪問しないでください”って書けば
訪問はないのよ。」と言っていたのですが、これは嘘です。
統監カードを引越し先にまわしてしまったら、絶対に訪問されます。
お世話になった人に住所を言わないのは心苦しい方もいるかと思いますが、
訪問されたくなかったら、絶対に学会員に住所を教えてはいけません。
お世話になりました、との気持ちを伝えるだけでいいと思います。

引越し先も無事決まり、先日家を見てきました。
とても素敵な家で、駅から近く、最高の物件でした。
これから始まる新たな二人の生活のためにも、
私は頑張っていきたいと思います。

みなさんこんにちは!
今回のテーマは「本当に創価学会はお金がかからないのか?」です。
コメント欄にも書いてくださった方がいましたが、
創価学会に入会する時によく聞く言葉。

『この信仰はお金が全くかからない』

です。
こんな言葉で「だから信仰しましょう」なんて言う人は稀だと思いますが、
結構聞くこのセリフ。世の中タダほど高いものはないと言いますが、まさしくそうですね。

※この額が絶対にかかる!というものではありませんので、
 あくまで目安にしてくださいね。
 また、「あれ?これが抜けている!」というものがありましたらご指摘ください。

まず、入会した時から順に考えてみましょう。

○御本尊 3,000円
○仏壇 3,000円~
○経本 50円~
○念珠 450円~
○経本・念珠入れ 400円~  計. 4,200円

ここぐらいまでは入会時にかかると思います。
たまに経本や念珠はプレゼントしてくれる学会員の方もいます。
仏壇などはピンキリなので、良い(?)ものを買えば買うほど
仏壇の小物が必要になってきます。
例えば、お線香・ローソク・ローソク立て・ライター(マッチ)・おしきみ・
おしきみ入れ・ご飯やお水などをお供えする時の器などなど。

○聖教新聞 1880円
○グラフ 387円
○大白蓮華 200円
○公明新聞 1835円  計(月額). 4,302円

○日蓮大聖人御書全集 3,466円
○その他学会書籍(人間革命など)

これらはとってもとらなくてもいいのですが、聖教新聞と大白蓮華は
必ずとるように言われるでしょう。
御書は、役職がある学会員なら買うように言われると思います。
(学生の場合、そんなに安いものではないので強要されません)

この他にも財務があります。
これは本当にどっちでもいいのですが、役職に就くと
(就かなくても言われますが)正直しなくてはならない雰囲気です。
毎月12月の公布部員になると1口1万円からできます。
(詳しくはこちら公布基金について

何だかんだ言って、「お金が全くかからない」というのは嘘です。
しかも、活動家になればなるほどお金は飛んでいきます。
(私としては、学会書籍が高かった~・・・)
世の中、お金がかからない宗教なんてないと思います。
なので、「全くお金がかからない」というセリフは信じないでください。
そもそも宗教って、お金がかからないからするものでもないですけどね。

何かを絶対的真理として生きていくのはそれなりにリスクを伴います。
宗教において、その教義を絶対的真理として守り、伝えていくことは
時に間違った先入観を自分に植え付けていくことになりかねません。

例えば、生まれたときから私達全員はお金(紙幣)に
価値があると教えられています。お金は自分が働くことによって
手に入れることができる貴重なものだと。

よく見てみると、紙幣なんてただの紙切れです。
火をつければ燃えますし、破こうとすれば簡単に破けます。
紙幣を食べても美味しくないのに、この紙切れで食べ物と交換できる。
別に紙幣自体がいきなり食べ物に変身するわけではありません。

しかし、この紙幣にはとてつもない力があります。
世界を大きく動かし、お金をめぐっての争いは絶えません。
それは、世界中の人が「紙幣には価値がある」という
ある意味先入観を持っているからです。
紙幣自体はただの紙切れ。しかし、この紙切れは自分を豊かにしてくれると。

宗教も、「絶対的真理がこの信仰には存在する」という
先入観のもとに成立しています。その真理(教義)がもし
「人を殺すのは正しい」とかいうものだったら、危険極まりない
だたの狂ったカルト教団として世間には認知されます。

この教義は正しい!絶対に間違っていない!
と決め付けることが(疑わないことが)どれほど危険なことか。
それが常識から外れていないか、ちゃんと見極められる力を
宗教というものは著しく低下させます。
オウム真理教の信者が起こした地下鉄サリン事件も、
信者は「正しいことをした。悪者を排除した。」と本気で考えていたのです。
「私達のやっていることは絶対に正しい」と。

正しく自分で考えられる思考力

これは、私達が生きていく上でとても大切なものです。
それを祈るという根本的に何も解決するはずのない行為で、
「一番良い方向へいきますように」と願うのです。
自分で真剣に考えられないから、祈りに頼ってしまうのです。
現に、「どうしたらいいのだろう・・・」と考えるのではなく。
「どうしたらいいのでしょう・・・知恵を下さい!」と願っていますし。
それは今まで「困ったら祈る」というサイクルを続けてきた
学会員にとっては普通のことなのです。

自分の人生、自分で切り開いていくものだと私は思います。
いつだって裏切らないのは自分。創価学会ではありません。
誰かにばかり頼り、祈り、信じ、それにすがって生きていくのを
私は否定しませんが、果たしてそれが「絶対に幸せになれる道」でしょうか。

創価学会の教えではないと幸せになれなかったら、
今まで生きてきた人の99.9%以上が不幸になっているはずです。
しかし、そんな世界ではありませんよね?
不幸な人ももちろんいる、しかし幸福な人もたくさんいます。
でもそれは「普通」なことであって、幸福な人がいれば不幸な人も存在してしまうのです。

自分を客観視する力

これが著しく欠けている学会員が「絶対に幸せになれるよ!」と言っても、
そこには何の説得力もないのです。
ここを指摘されて怒っている学会員の方がいたら、
あなたはちゃんと自分を客観視できていますか?
できていたら、怒ることなんてできないと思います。


よく学会員の中に、結婚条件として入会を迫ってくる人がいます。
前にも書きましたが、もし自分の結婚条件の中に「相手の入会」があり、
将来を少しでも考えている場合は

一刻も早く自分が学会員であることを言いましょう

「そんなの私の(俺の)勝手でしょ!」と言われても、
私は絶対に言うべきだと思っています。

なぜなら、結婚相手の条件に入会が入っている場合、
大抵の学会員は恋人と仲良くなってから自分が学会員だと打ち明けます。

それって、とても卑怯です。
仲良くなってから入会を迫るなんて、
弱み(惚れた弱み)を握っての脅迫と一緒です。


結婚が決まってから言うなんて持っての他。
結婚条件に入会が含まれているのならば、
最初付き合う時に言うべきだとも思います。

「私(俺)、創価学会なんだ。」

と言われた時、普通の人ならどう思うでしょうか?
ある程度の社会人だったら驚く人が多いでしょう。

結婚条件で宗教を強要するなんてそもそも間違っているのですが。

結婚を考えている時は相手がとても大切、しかし、
「形だけでも入会すればいいや」などとは絶対に思わないで下さい。
(相手が未活動だったら話は別ですが)

結婚相手が活動熱心な場合、
配偶者が形だけ入会していることはほぼ不可能です


結婚して、相手が熱心な学会員だったら、配偶者が未活動の場合
どういう扱いをされるかを知る必要があります。
活動熱心なら熱心なほど、「配偶者をも活動家にさせられない人」
と見られること間違い無しです。

役職があったら尚更言われますし、信仰熱心なら
「相手が真剣に信心できないのは私の(俺の)責任だ」
と思ってしまいます。なので尚更活動熱心になるという悪循環。
一向に分かり合えない夫婦間になってしまう可能性があります。

考えてみて下さい。

   ***************

もしあなたが配偶者に頼まれて渋々入会したとしましょう。
相手はバリバリの学会員です。

まず、会合に出てくれと言われる。
       ↓
そしてあなたは渋々出ることになる。
       ↓
何回も会合に出ていると、幹部から「新聞啓蒙(または折伏)できない?」
と聞かれるようになる。
       ↓
配偶者の立場もあり、渋々友人に頼む
       ↓
友人に嫌われる可能性がある
       ↓
新聞啓蒙ができたら、次は選挙
       ↓
また友人に頼み嫌われる可能性がある
       ↓
折伏をしようと言われる
       ↓
さすがにそれは無理だと突っ張る
       ↓
それは祈りが足りないのだと唱題会などに連れられる
       ↓
しょうがなく友人に折伏をする
       ↓
簡単に折伏は決まらないのでどんどん友人に頼む
結果的に友人をなくす
       ↓
しかし弱音を吐くと決まって幹部指導

   ***************

というように、かなり極端に書きましたが全然有り得ている話です。
しかし、自分の友人を無くすのならばまだいいとして(良くないですが)
問題は子供です。両親とも学会員の場合、入会させないなんて
選択肢は存在しません。間違いなく入会決定です。

この子供は、親の姿を見て育つのです。
子供は何の先入観も無く、すんなりと信じ込みます。
そしていつのまにか活動家になっているのです。
(私はこんな感じだったので)

そもそも、結婚の条件の時に入会してくれないと結婚できないなんて、
相手を本当に思いやっていない証拠です。
何より相手のことを考えていません。
あたかも自分が法華経を広めている慈悲深い人間のように、
相手の意見なんて無視し、価値観を認めようとせず、
自分の価値観に無理矢理引きずりこもうとする。
それができないと怒り出し、人格否定までする始末です。

自分勝手なのです。

自分の恋人がよくわからない宗教にはまっていて、
何でだか自分を入会させようとしている。
新聞を取ってくれと、選挙に入れてくれと・・・
どこからどう見ても変なのに、それを指摘すると怒り出す。
急にヒステリックになる。

こんなんじゃ、誰も結婚したいなんて思いません。

今日は私が今まで生きてきた中で、一番ショックを受けた話をしたいと思います。

話は私が就職したての時の話。
姉がフリーターで実家にいて、母は専業主婦、父はサラリーマンです。
(私は実家から既に出ていたので体験していません)

ある日、姉がアルバイト先から帰ってくると、
母と父がとても険悪なムードだったそうです。
姉は「いつものケンカかな?」ぐらいにしか思ってなかったらしく、
バイトの後用事があったので出かけたそうです。
用事から帰ってきてもまだ険悪なムードの両親。
姉は母と夕飯を食べながら、母に言われたそうです。

「お母さんたち、離婚しようと思ってるの。」

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

姉はいきなりの告白に驚いて、とにかく訳を聞いたそうです。

ケンカの原因は、母の熱心な学会活動でした。

父の言い分では、いつも仕事から帰ってくると家には
既に寝てしまっている祖母と祖父(どちらも母方です)しかいない。
姉はバイトがまだ終わっていなく帰宅していない。
(私はもう実家から出ていますのでもちろんいません)
母は会合でいつも夜いない。

帰ってくるとテーブルには冷めた夕飯。
仕事で疲れて帰ってきても出迎えてくれる人は誰もいない。

父は母に言ったそうです。

「お前は何のために活動しているんだ。
 家族を犠牲にしてまでする価値があるのか。」
と。

その時母が何と返したのかはわかりませんが、
学会活動を止めることはできないと父に言い、
なら離婚しようと父が母に言ったそうです。

私はここまで話を聞いて、かなり愕然としてしまいました。
私ももう成人していますし、両親がどうしても価値観の違いで
離婚するのなら頭から否定はしません。(もちろんショックですが)
しかし、離婚理由が「創価学会」なのは納得できませんでした。

一家和楽の信心じゃないの!?
私達の意見は一切無視でいきなり離婚!?

私は世界で一番父親を尊敬しています。
どんな時も冷静沈着、博識で的確な判断、仕事にはとても真面目で
説得力のある会話、何より家族を大切にし、いつも笑顔で面白く
「こんな凄い人もいるんだなあ~・・・」といつも思います。
姉ともいつも話していました。

私達姉妹にとって「そんな父親が、離婚を提案した」という事実は
もの凄く衝撃的で、私はしばらくショックを隠せませんでした。
そして思ったのです。

お父さんは、ずっと寂しかったんだ

と。

私ももちろん実家にいた頃は寂しかったですが、
今は彼と一緒に住み、幸せに暮らせているので心は豊かになりました。
しかし父は、何十年間も信仰熱心な母と共に過ごし、
様々な事を乗り越え、経験してきたと思います。
その中で少しずつ蓄積されてきたものが爆発したのでしょう。

私はわからなくなりました。

幸せになるはずの信仰なのに、
母は自分のしていることで父を苦しめていたのです。
母にとって活動は生きる実感を味わうもの。
創価学会を疑う気持ちなんて全くありません。

離婚問題は、姉が一生懸命両親を説得してくれたそうです。
祖父、祖母のこともありますし、何よりお互い頭に血がのぼっている
状態だったので、まともな判断は無理だと思ったと言っていました。

創価学会が原因で離婚する話は、今まで何回か聞きました。
私がいた地区でもいました。珍しいことではないようです。

離婚なんて、私の家庭には無縁だと思っていました。
でも真剣に活動すれば幸せになれると信じている母は、
結果離婚問題にまでなってしまいました。

果たしてこれが本当の幸せでしょうか?
あのまま姉が止めなかったら確実に離婚だったでしょう。
そこまで家庭を疎かにしてする活動なんて、無意味です。
そこには何の価値も生まれません。

母が唱題会へ行って家族の幸せを祈るより、
一緒にご飯を食べてくれる、たったそれだけのことが
どれだけ家族のためになるでしょうか。

母は父が働いてきたお金で生活も活動もしています。
尊敬するのは「池田先生」ではなくて、まずは「お父さん」なのではないでしょうか。

私は、彼に寂しい思いをさせたくありません。
ご飯は一緒に食べたいし、おかえりって出迎えてあげたいです。
好きならば、大切ならば、こんな大切なことは見失いません。

母はご飯を一緒に食べる、おかえりって出迎えるよりも、
学会活動することの方が大切だったのでしょう。
私はそんな母親には、絶対になりたくないのです。


皆さんこんにちは!
私達は今年中に今の家から引っ越す予定なので、
この連休で物件探しをしていました。
彼の職場に近い場所で探していたのですが、
とても運良く希望以上の物件が見つかりました。
もうその日は諦めかけていたのですが、粘り強く探していたら遂に発見。
不動産の方の対応もとても良く、大満足で決めることができました!

運が良かったなあ~とつくづく思います。
私がもしまだバリバリの学会員だったら「福運だあ!!」と思っていたでしょう。
でも確実に言えることは、

お題目あげて良い物件を探す
お題目をあげている時間の分物件をもっと探す


のでは、後者のほうが良い物件にめぐり合える確率が高いと思いました。
不動産の方も言っていたのですが、物件探しはタイミングと探した物件の数だそうです。
実際私達はかなりの物件を探しました。結果めぐり合えたと思っています。

「見つからなかったけど、この場所が自分の使命ある場所なんだ!」
と思うのは、発想の転換としてとても良いと思います。
でも、一つ言えるのは、

希望通り見つかった場所だったら、
ここはまさしく自分の使命ある場所なんだ!!

と思っていたということです。
なので、前の記事でも書きましたが、
どっちもどっち、できれば希望通りの場所なら尚良い、のでしょう。
でもそうやって、使命があるか無いかは別として
「どこでも自分の使命の場所」と前向きに考えられるのはある意味羨ましいです。

みなさんこんにちは、連休はいかがお過ごしでしたか?
今日はいくら話し合っても理解できない人に宛てたテーマです。

「恋人(友人)が創価学会で、いくら自分(非創価学会員)と話し合っても
 一向に解決に向かわない」

こういうコメントをよく目にします。
恋人が学会2世・3世の場合、いくらお互いが話し合っても
完全に創価学会が正しいと信じていることが多いので
話し合いには長い時間が必要だと思います。
長い時間信じてきたものを変えるのは非常に難しいです。

私も「話し合っても無駄だ!!」と一体何回思ったことか・・・
その度にケンカでした。なんだか非常に無駄な感じがしますが、
この「話し合っても無駄だ!!」と感じることは大切だと思います。

私は「話し合っても無駄だ!!」と思うことが多すぎて、
結局結論に詰まってしまいました。
「ではどうしたらいいのだろうか?」
「もう充分話し合ったのに解り合えない・・・」
「もう別れるしかないのだろうか・・・」など。

しかし、無駄だ!!と思うことによって、一見考えているようで
何も考えていなかった自分に気づきました。


「無駄」と考えていることによってこれ以上考えることに
蓋をしてしまっていたのです。それでは絶対にお互い解り合えません。

話し合って無駄なわけが無いのです。

お互いが解り合おうと頑張って努力しているのに、
それを自分で無駄にしている自分に気づきました。

これではいけない と。

これでは一向に相手を認めることさえできない と。

こう気づくと、創価学会という宗教団体を客観的に考えられるようになりました。
学会員の人は、「自分が特殊な価値観を持っている」とあまり思いません。
「特殊な価値観を持っているとわかっている『けれど』正しいと信じている」
『けれど』がいらないのです。
正しいと信じていることは一旦置いておいて、
どのような価値観を持っているのかを客観的に考えることが大切だと思います。
ここの特殊は決して悪い意味では言っていません。
「世間一般と違う価値観を持っている」のです。

学会員は大多数の人がしてこなかった体験を、何十年(何年)もしています。
しかし、その体験が「良いか悪いか」は別問題なので考えなくてはいけません。
自分の価値観が普通だと思うと、絶対に解り合えないと思いました。
「自分の家庭は特殊だったんだ」と認めることから始まると思います。

ではどこが特殊なのか?

それを突き詰めていったら、私は結果無宗教になりました。
特殊なことを特殊と認めること、至って普通なことがなかなかできなかったのです。

相手が自分のことを解ってくれない、これは普通のことで、
ましてや宗教のことですんなり解り合えるなんて滅多にありません・・・
もしすんなり解り合えたとしたら、元々相手がその宗教に興味があるか
(又は全く無く)、それともただ、そこまで深く考える必要がない相手なのでしょう。
以前「相手の価値観を尊重しよう」という記事を書きましたが、
好きだから全部尊重しよう、という考え方はやめたほうがいいと思います。
将来を一切考えていなく、そのような未来がありえないのだとしたら別ですが、
将来のことを考えると、創価学会は必ず問題になってきます。

自分が本当に考えるべきことを考えているのか

これを常に考えていないと、とんでもない方向へ話がいってしまいます。
学会員の方は、自分のことをちゃんと客観視できているでしょうか。
非学会員の方は、自分は絶対にわからないという壁を作っていないでしょうか。

「話し合っても無駄だ!!」と思って、それが原因で破局するのは
とても悲しいです。無駄でも好きだから話し合うのですから、
もうあなたは話し合うことに意味を見出しているのです。
本当に無駄だったら、話し合おうとする気さえ湧かないものです。

創価学会公式ホームページ(SOKAnet)の「新会員のために」
というカテゴリーからの抜粋です。

『「勤行をしているが、祈りがなかなか叶わない」という人がいます。
 そういう人の話を聞いてみると、“祈れば何とかなる”と思って
 努力を忘れていることが多いようです。
 「祈りとして叶わざるなし」の信心ですが、同時に「仏法は道理」です。
 現実の生活、仕事、また勉学において願いや目標を叶えるための努力をしないで、
 祈っていればいいと安易に考えるのは間違いです。
 努力した延長に、祈りは叶うのです。言ってみれば、
 祈りとは、努力し、目的を成就させていくための“エンジン”なのです。
 さらに、その時は思うような結果にならない場合があったとしても、
 後になってみると、一番良かったという方向になっていくのが信心の功徳です。』

これを読んで、突込みどころ満載なのでまずどこから考えていこうか迷います。
では、順に上から考えていきましょう。

>>「勤行をしているが、祈りがなかなか叶わない」という人がいます。
   そういう人の話を聞いてみると、“祈れば何とかなる”と思って
   努力を忘れていることが多いようです。

「祈れば願いが叶う」と言って祈伏するのが学会員です。
「努力した上で祈れば願いが叶う」なんて言って折伏している
学会員は見たことがありません。
折伏時には、祈る=願いが叶うではないことを、もっとアピールすべきです。
そこをちゃんと言わないで後々「努力が大切なのは当たり前よ」と言われても、
祈って願いが叶うんじゃなかったの?と言われるのはしょうがないです。
はっきり言って、努力が大切なんて超当たり前ですが、
宗教という「なんだか不思議な神秘的な力」を主体としている場合、
「祈る=願いが叶う」と勘違いする人は多いに決まっています。

>>「祈りとして叶わざるなし」の信心ですが、同時に「仏法は道理」です。

道理=人の行うべき正しい道
という意味を忘れていないでしょうか?
しつこい選挙活動、折伏、新聞啓蒙、夜遅くの訪問、囲んでの仏法対話、
これらも道理なのでしょうか。

>>祈りとは、努力し、目的を成就させていくための“エンジン”なのです

エンジン、ということは祈りがない=成就しないということになりませんか?
車体という骨組みがあっても、エンジンがなくては動きません。
私にとって祈りというものは、車で例えるなら内蔵されたステレオです。
要するに、それがあってもなくても車は動き、それ自体は運転に支障をきたさず、
あったならあったで活用する時があるかもしれない、ということですね。

>>その時は思うような結果にならない場合があったとしても、
   後になってみると、一番良かったという方向になっていくのが信心の功徳です。

私にとってここが一番納得いかないところです。

後になって一番良かったなんて、
一体どうしてわかるのでしょうか


はっきり言って、この言葉はとても矛盾しています。

例を挙げて考えましょう。
祈ったのだけれど第一志望の就職先A社に内定をもらえなかったあなた。
あなたは第二志望の就職先B社に決まりました。
入ってみて、周りの環境が良い、仕事も楽しい、順調に出世した!!
後々良いことづくめだったとしても、

あなたは第一志望のA社がB社より良いと、
なぜA社で働いてもいないのにわかるのですか?

ここにはなんの根拠も説得力のカケラもありません。

あなたが、もしA社で働いたら○○だった!!なんて言ったとしても、
それはなんの根拠も無いただの妄想にすぎないのです。
ではもし、A社が倒産したとしましょう。
そしたらあなたは間違いなく「B社に決まったのは功徳だ!!」と
言うでしょう。しかしここでもそれは変な話で、
A社が倒産したとしても、あなたはA社にいて
絶対後悔するなんて言い切れないからです。

あなたはただ単純に、自分が選んだ道を正当化したいがために、
A社にいたら自分が「最悪になっていた」と妄想したにすぎません。


もしかしたらA社にいる途中でどこかに引き抜かれ、
B社よりももっと良い場所で働いていたかもしれません。
(これは確率低いですが)
それか倒産する前に転職し、もっと良い場所に転職する可能性だって
充分考えられます。

人は思い込みによって救われる

その思い込みが功徳なら、人間皆功徳を受けています。
祈りは叶わなかったが一番良い道に進めている、これが功徳だ!!
なんて、わかる人はただの予知能力者です。

その1はこちら→http://heibonnnakurashi.blog117.fc2.com/blog-entry-6.html
その2はこちら→http://heibonnnakurashi.blog117.fc2.com/blog-entry-42.html

その1では女子部中心に書き、その2では友人を中心に書きました。
その3は、母親について書きます。

私の家庭は、全員創価学会です。母・父・姉・祖父・祖母、全員です。
この中でも特に熱心なのは母親です。
父は元々無宗教だったのですが、結婚の条件として入会しました。
私の現実主義な頭は、物凄く父親の性格を受け継いでいるのです。
なので父親に信仰を強制させられたことはありません。

私が女子部や友人の言葉を聞いて、徐々に学会に対して
不信感がつのってきましたが、しかし、まだ信心を止める!という
踏ん切りがつかないままでした。そしてある日母と学会に関して
電話で話す機会がありました。

   *****************************************

キヨ 「私、創価学会のやり方(選挙活動など)には賛成できないんだ。」

母 「なんで?選挙も立派な学会活動よ!」

キヨ 「そこがわからないんだよ。思いっきり政教一致だし・・・」

母 「昔から、宗教と政治は結びついてきたの。日本ぐらいよ?
   宗教と政治が分離してるの。」

キヨ 「お母さんさ、ちゃんと自分で調べて納得して私に話してる?
    学会が言っているからって何でも信じるのは良くないよ。」

母 「キヨ・・・あんたちょっとおかしいよ。」

キヨ 「おかしいって、何が?」

母 「あんたは変わってしまったね・・・あの人(今の彼)と付き合ってから・・」

キヨ 「あのね、私は自分で考えて、自分で調べて言っているの。
    もちろん彼の影響はあるよ、でも、彼が無理矢理脱会させたがってる
    わけじゃないんだし、そう決め付けるのはちょっと間違ってるよ。」

母 「いいや!!あんたはもう昔のキヨじゃない!!
   本当に・・・狂ってるよ。学会から離れると、地獄へ落ちるからね。」

こう言われて、
母は 「もう疲れたわ・・・じゃあね。」と一方的に電話を切られました。

   *****************************************

私はその時、涙が止まりませんでした。
そしてその受話器を握り締めて、決めたのです。

私はもう創価学会から離れる

と。

私の母は自分の子供を思って「地獄へ落ちるからね」と
言ったと学会員は言うでしょう。母親もきっと、その言葉は
私が本気で憎くて発したのではないと思います。

しかし、これが優しさですか?

自分の子供に、「地獄へ落ちるわよ」なんて、普通言いますか?
狂ってるなんて、一体何回言われたことか。

これらの言葉が真の思いやりならば、
私はこんな宗教絶対に信仰したくありません


私は、将来自分の子供に対して
「地獄へ落ちるからね」なんて絶対に言いたくないのです。
言われた悲しさがわかるから、私はそんな思いさせたくない。
人を傷つけてまでする宗教って、一体何でしょうか。

私は、今まで信じてきたものを一気に打ち砕かれたような気がしました。
心を大きなハンマーで砕かれたような、本当に、胸が痛いのです。
受話器をしばらく放せないまま、ずっと泣き崩れて、
しかしそんな私を優しく受け止めてくれたのは彼でした。

「世の中、親でも合う合わないはあるんだね・・・
 俺、今まで家族って仲良くて当たり前だと思ってた。
 キヨは絶対間違ってないよ。俺が側にいるから、大丈夫だよ。」

そう言って抱きしめてくれたのは彼でした。
彼の優しさは、まぎれもなく真の優しさでした。

学会員は、退転した人(脱会者)を悪く言う癖があります。
そして、前どんなに頑張って活動していたとしても、
些細な欠点を見つけ「やっぱりあの人は」と言う。
「何かおかしいと思っていたんだ」と言う。

それってものすごく惨めなことだと思いませんか?
「信じられなくなったから止めた」
たったそれだけのことだと私は思うのですが。

「アイツは退転した!地獄に落ちる!」とか
「退転するような弱い人間だったんだ!」とか、
そんなこと言う必要なにのに言われます。

それって根拠の無いただの悪口です。
悪口ばっかり言っている人を信じられますか?


「ああ、あの人はこの信心の素晴らしさがわからなかったのか。」
で終りにすればいいと思うのですが・・・これって間違ってますかね?

「わからないのはあなたの信仰心が薄いから」

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いやいやいやいやいや!!!!!
それは決して違います!!

例えば、友達Aさんに誘われてスポーツジムへ行ったとしましょう。
そして体験してみて入会したBさん。

しかしBさんは長年真剣にやってみて、なんだか自分に合わない
気がしてるけれどもAさんの手前もあり止められない。
でもこれ以上続けるのは苦痛なので、

そこで「やっぱり俺止めるわ。やってみたけど合わないし。」

と言われたら、あなたがAさんの立場なら何といいますか?

「いやいや!!本当に楽しいからもうちょっとやってみようよ!!」
「なんでこの楽しさがわからないわけ?おかしいんじゃない?」
「真剣にやってもいないで合わないとか言うなよ!!」
「そっかあ・・・残念だけど仕方ないね。」

私なら間違いなく一番下のように言います。
だって、スポーツジムを利用するのはBさん本人だし、
決して自分じゃないからです。
決してBさんが頭がおかしいわけでもないし、ただ単純に
「合わなかっただけ」なのです。

それを責められますか?

合わないものは合わないのです。
例えどんな努力をしたって。


「あなたはそんなに努力してないでしょ!」と言ったとしても、

あなたはその人がどんな努力をしたか、
自分の努力のサイズで計っていませんか?


そして止めてからAさんが周りのジム友達に
「Bは全然このジムの素晴らしさわかってないよ!!」
「あいつはもうダメだよ。全然真剣にやってなかった。」
「何かあいつは変だと思っていたんだ・・・」
とか言っていたら間違いなく嫌がられます。
少なくとも友達は増えないでしょう。

自分と合っていないものを継続するのはとても苦痛なことです。
それを止めて、その止めた人の悪口を言うなんて大人気ないです。
相手の価値観を認めるのって、そんなに難しいことなのでしょうか。
そんなに相手が間違っていると言い張って、
自分たちが正しいと安心したいのでしょうか。

私は自分が物心ついたときから親と会合に参加していました。
小学生の時は学会の合唱団にも所属し、
中学生の時は中等部の何かの代表(名前を忘れました)で、
高等部の時はグループ長(名前が正しいか怪しいですが)、
学生部の時は地区リーダーや他にも様々な役職を兼任していました。

なので学会活動することが普通であり、
また自分が活動することによって親も喜びました。
私が本格的に信仰を始めたのは小学生の時でしょうか。
勤行をするのが日課になり、会合へも親と一緒に行く。
これは当たり前で、池田大作氏の書いた本を読み、感動し、
小学生なのに友達に仏法対話(創価対話?)してました。
今考えると凄まじく信仰熱心な小学生だったと思います。

中学生になって環境がガラっと変わり、しかし会合へは
できるだけ参加してましたし、自分から司会などもやっていました。
この頃は親の前で勤行をするのが少し恥ずかしく、
自分の部屋でしていたのを思い出します。

高校生になって、クラスに私と同じような環境で育った
学会員の女の子がいました。なのですぐ仲良くなり、
会合でも一緒になったりとても安定した高校生活だったと思います。
しかし反抗期だったので、勤行はあまりしなくなりました。

ここまでは、実家で暮らしていたので自然に創価学会と
触れる機会が多かったのでしょう。
問題は学生になり一人暮らしになってからです。
母親は私が信心根本に生活できるかが非常に不安だったと思います。
しかし私は母の期待通り、物凄い信仰熱心な女子部となりました。

私は18歳の時から一人暮らしを始めたのですが、
当時仕送りは一切なく、奨学金とバイトで生活をしていかなくては
なりませんでした。なので「自分で自分を生かしている」という
強い思いがあったのです。しかも、女子部からはこう言われていました。

「20歳までは親の信心で守られるけれど、
20歳を超えたら自分の信心でやっていかなくてはいけない。」


なので今は18歳で守られているから大丈夫だけれど、
あと少ししたら自分で自分の信仰を支えていかなくてはならないんだ!!
と怖くなったのを覚えています。そこで女子部は言います。

「キヨちゃんはもう一人暮らしでご両親の目が届かない。
 だからもう自分で全部福運積んでいく決意で信心しないとね!」
と。

こう言われた私は、とても学会活動を疎かにすることなんてできませんでした。
活動を疎かにすることは、自分の生活に直結してくると考えたからです。
自分はもう親から守られていない、だから自分の生活のリズムを
ちゃんと正しくしていかなくてはいけない。

生活の良いリズム=深い信仰心と学会活動

だったのです。
自分が生きていくために信仰しなくてはいけない、こう思いました。

なので、私は今までも活動家でしたが、一人暮らしになってから
より活動家になったのです。
自分の生活のため、生きるために、真剣に信仰しないと!!という感じに。

でも日々活動するなかで、青年部幹部会で罵声を浴びせる幹部の姿や
女子部の言動には不信感を持っていましたので、
100%信じていたわけではないのですが・・・

「真剣に信心すれば、バイト先も就職先も最高の場所が見つかるよ!」

その当時の私には、この言葉はとても魅力があったのです。

色々と「書いてほしいテーマ」を頂いたので、
一つ一つ書いていきたいと思います。
私の個人的な考えで取り上げないテーマもありますので、
あらかじめご了承ください。でもなるべく取り上げますね。

今回のテーマは「私が学会をやめるきっかけその2」です。
その1はこちら↓からお読みください。
http://heibonnnakurashi.blog117.fc2.com/blog-entry-6.html

その1では女子部の言葉をメインに取り上げましたが、
今回は友人からの言葉です。

私は以前、彼と、彼の友人2人に休日の朝いきなり自宅に押しかけられ、
何時間も創価学会について口論したことがあります。
朝7時頃だったでしょうか・・・(この時はかなりの活動家です)

いきなり彼からの電話。
「今からそっち行っていい?」
私はその電話で起きて、どうせオールで飲んできたんだろうなあと
思いつつ了承。何十分か後に3人がやってきました。

彼は酔っていて(後の2人は酔いは醒めていました)
いきなり私に創価学会のどこが正しいのか問いただす始末。
私は呆れてしまって、

何で私が休日の朝に3人からこんな責められなきゃいけないんだ

とかなりの憤りを感じていました。

彼は酔っていたので、彼の発言は無視していました。
(実際何を言っているのかわからなかったですし)
問題は彼の友人2人との会話です。

彼の友人AさんとBさん。
Aさん(男性)はバリバリのアンチ創価学会。
Bさん(Aさんの彼女)はちょっと創価学会に迷惑を感じている人。

Aさん「創価学会の一番ダメな所は、政教分離していないところ。」
Bさん「私も選挙の時によく友達から電話かかってくるなあ・・・」

と創価学会の悪口を手当たり次第マシンガントーク。
これには私も付いていけなく、黙り込んでしまいました。
私には政教分離について知識も乏しく反論ができない。
選挙が迷惑だっていわれてもそれを押し返せる説明も持っていない。
(単純に日本が良くなるためとかの説明では説得力が無い)

結局私は黙り込む=反論できないとまた文句を言われる

と悪循環で参ってしまいました。
さすがに彼も私が気の毒になったのか、仲裁に入ります。
でもこの時、創価学会が物凄く自分に重くのしかかり、
「結局自分は何も知らないで信仰していた」ということを
思い知らされる結果となったのです。

「なぜ創価学会が良いのか」
「自分は何を根拠に信仰しているのか」

これは、「自分が良いと思っているから」ぐらいしか
私には言えなかったのです。

今でも彼とこの時のことを話すのですが、
この時はさすがに酷かったと彼は謝ってくれます。
「あの時友達を連れて学会攻撃した俺は、
 キヨの気持ちを全然考えてなかった。」と。

しかしこの経験は、

何で私は創価学会というだけで、
こんなにも辛い思いをしなくてはいけないのだろう。


という思いに繋がりそして、

少なくとも私が創価学会ではなかったら、
こんな思いはしなかったのに。

という悔しさがこみ上げてきたのです。
これは強烈な体験でした。そして思ったのです。

こんな思い、二度としたくない

と。
これが、私のやめるきっかけの一つです。

私の心が弱いと言う人もいるでしょう。
信仰心が足りないからだと言う人も。
でも、辛すぎることから目を背けて何が悪いのでしょうか。
辛いことを嫌だと思うことは間違っているのでしょうか。
それを祈ることで乗り越えたとしても、それは私にとって
決して「乗り越えた」ことではなく「押さえつけて我慢した」ことなのです。

我慢はいずれ破裂します。
私はそうなりたくなかった。はっきり辛いと言いたかったのです。
宗教のことで我慢しなきゃならないなんて、間違ってます。
私はただ、幸せになりたいと望む普通の人間なのです。

このブログをご覧になっている皆さん、
いつもお越しくださっている方も、また初めての方も、ありがとうございます。

日々皆さんのコメント(非公開のコメントももちろん含め)を
読むなかで、私のアウトプットに反応して下さりとても嬉しいです。

私がこのブログを立ち上げて、まだ2週間程でしょうか。
様々なブログも拝見させていただき、自分の中で「創価学会」
という存在が今までどれほど大きかったのかを感じます。

その反面、今までの私の生きる原動力となってきた創価学会。
それを否定することの厳しさ、辛さも体験してきました。

私はこのブログを通して、
「創価学会に入っている人はすぐ脱会しなさい!」とは一切言いません。
(というかそんなこと言えません)

創価学会の方は、私が見る限り純粋に信仰している方が多いです。
純粋に正しいと信じ、相手の幸せを願い、日々活動しているでしょう。
その気持ちは、私はとても素晴らしいと思います。
その信仰によって救われている人が確かにいるのですから・・・

しかしなぜこんなにもバッシングされるのか?
それはやはり排他的思考と布教活動の方法でしょう。
そこを今一度考え直さないと、今後益々創価学会は嫌われてしまいます。

非学会員さんの「学会が嫌いな気持ち」も痛いほどわかります。
実際私も学会員の人に傷つくことを何度も言われました。
しつこい布教活動(選挙活動も含め)もとても迷惑でしょう。

お互いの気持ちがわかるから余計やりきれない思いです。

いつもコメントを下さる皆さん、私はとても色々考えさせられています。
非公開でコメントをくださる方、コメント返せなくてごめんなさい・・・!!
非公開でもコメント返せるシステムがあればいいのですが・・・

今まで色々な記事を書いてきましたが、これからも
色々書いていけたらと思っています。
書くテーマがだんだん減ってきたので、「これを書いて欲しい!」
とかありましたらコメント非公開でかまいませんので言ってくださいね。

このブログが少しでもお役に立てれば幸いです。

これからもよろしくお願いします。

昨日女子部2人が私の家に来ました。
無視しようと思ったのですが、久しぶりに会ってみることに。
少し今の仕事の話などをしていると、
案の定「この会合に来れる?」が本題でした。

私は「忙しいのでまだわかりません。」と答えると、
「じゃあまた連絡するね!携帯でいいよね?」と超笑顔で言われ、
久しぶりに会っても、やっぱり会合の話なんだなと思いました・・・
「自転車で行けなかったら車だすからね。」と。
普段はとても良い人なのに、学会の話になると
とてもヒステリック気味になる女子部。

未活動の学会員には
「忙しかったら無理しなくて良いんだよ。」
と優しい言葉をかけるのですが、

活動家が会合にいけないと理由はなんであれ
「リーダーとして会合へは出なきゃダメよ。」
と言われる始末。なんだかよくわからないです。

前置きが長くなってしまいましたが、今日は「広布基金」について。
広布基金とは、いわゆる学会内の「お金の寄付」ですね。
前にもちょこっと書きましたが、今日はちゃんとテーマとして取り上げます。

広布基金。これは毎年12月に行われます。
広布部員になるとできるもので、1口1万円から何口でもできます。
普通に会館などでできる寄付は広布部員にならなくてもできます。

去年の何月かは忘れましたが、女子部に言われた一言。
「キヨちゃんはもう働いているんだから、広布部員になれるわね!」

なれるわねって・・・なりません

その時は信心に疑問が生まれていた時だったので、
「わかりません、私も生活が苦しいので。」と一言。

それでも女子部はひるみません。
「でも学生じゃないし、したほうが良いと思うの。
 1口ぐらいならあまり負担にならないと思うし。」

私は、なんでこんなに勧めるのかなあ・・・と益々不信感がつのりました。

以前母が言っていました。
「お父さんがね、こんなにも学会に寄付してくれたのよ!
 本当に素晴らしいわね!!」と。

その時の額は確か20万ぐらいだった気がします。
本当に開いた口が塞がりませんでした。
正直言って、私の家はとても貧しいです。
20万円をすぐ出せる経済環境ではありません。

私はその時思いました。
「私の家は今まで一体いくら寄付してきたのだろうか・・・」
おそらく数百万の単位で寄付してきたんだろうなあ・・・と
なんだか悲しくなってきました。
実際実家にある仏壇も、100万以上すると言っていました。

私は、寄付をすることがいけないことだとは言いません。
それが実際ちゃんと役に立っているのなら寄付する甲斐もありますし。
しかし、母は言うのです。

「苦しい時にしたご供養ほど、
後で何倍にも返ってくるのよ。」

と。(ここで言う「返ってくる」のはお金らしいです。)

ご供養するあなた、あなたはお金が何倍にもなって
返ってくるのを望んでご供養しているのですか?
何倍にも返ってこなかったら、ご供養しないのですか?


しかも、

苦しい時にしたご供養>裕福な時にしたご供養

なのですか?
寄付って、そんなものなのですか。
私は自分の環境が貧しい時に寄付なんてしません。

お金というのもは、とても大切なものです。
今まで自分が汗水たらし、『自分の時間』を働くことで
お金に換金しているのです。
いわば、そのお金は自分の努力の結晶なのです。

そのお金をどう使おうと勝手ですが、養うべき人がいる場合、
それはむやみに使うものではないと思います。

しかもそんな大切なお金を、
「あなたはもう働いているから寄付できるわね。」なんて
勝手に判断されてはたまったものではありません。

学会では、ある程度活動家になると公布部員になることは
一種のマナーみたいなものになっています。
「自分の地区から広布部員を何人出すか」これはとても大切らしいです。
いくら「ご供養は自由だ」と言っても、リーダーが広布部員でなかったら
間違いなく上の役職の人に「広布部員になりなさい」と言われるでしょう。

実際私も母から
「あなたは地区を引っ張っていく存在なのだから、
 公布部員になりなさい。」
と言われました。

お布施は心、それはわかります。
しかし、自分や家族を苦しめてまでする寄付って、
私はどうなのかなって思ってしまうのです。
それって結局、自己満足の世界ではないですか?

皆さんこんにちは!

私は今彼と一緒に引っ越し先を探しています。
今迄一人暮らしの家での同棲生活だったので、お互い仕事にも慣れてきたし
もう少し広い部屋に引っ越そうかということになりました。
彼の仕事場に近い場所に引っ越そうかと考えてます。

学会には、統監カードといものがあります。
このカードには、その人の個人情報が書かれています。
住所・電話番号・家族構成・信仰歴など、色々書かれています。
なので、私は引っ越したら統監カードは提出するつもりはありません。
(自分で提出するものではないのですが・・・)

もし私が引っ越しをして、自分の住所を学会員に伝えたとします。
その住所は統監カードに更新され、引っ越し先の学会員に情報がいきます。
その地区の学会員さんはその住所を元に、家庭訪問をします。

なので私は、家庭訪問をされたくないので住所は学会員には伝えないつもりです。
もちろん親には言いますが、女子部には伝えないようにはっきり言います。

以前こんなことがありました。
私の実家に女子部から電話があり、私の電話番号を教えてほしいと言ったらしいです。
(その時私は未活動だったので、電話にでないことから
 番号が変わったと思ったのでしょう。)

電話に出た母は、その女子部の言う通りにすんなり番号を教えてしまいました。

「○○地区の○○と申しますが、いつもキヨさんにお世話になっております。
 キヨさんと連絡がとれないのですが、電話番号を教えてもらえますでしょうか?」

母は上記のような内容だったと言いました。
「あんた連絡が取れないって言ってたわよ!何してるのよ!?」
と物凄く怒られました。

しかし私は、ちょっと待ってよと、

相手が学会員だからって
すんなり私の個人情報を教えないで!!!


この調子だと聞かれたら住所まですんなり言ってしまいそうでとても怖いです。

私はなにも学会員が訪ねてくるのが怖いと言っているのではありません。
「相手が学会員」というだけで安心感を持たないでほしいのです。
はっきり言って、上の電話の内容ではその人が学会員という確証は持てません。

私は自分の個人情報にはとても敏感です。
電話越しに誰かの番号や住所などは絶対に言いません。
これは今の世の中当たり前なマナーだと思うのです。

学会員だと偽っての詐欺も多発しているようです。
もう少し「情報」の重さを認識すべきだなと私は思いました。

私の周りの女子部は、とても華やかで優しい人が多かったのですが、
恋人のいない方がほとんどでした。
結婚すると女子部から婦人部へと変わるので、女子部に既婚者がいないのは
当たり前なのですが、不自然すぎる程に恋人の話には敏感です。

私は活動家の時から今の彼と付き合っていたし、
彼との関係はオープンにしていたので女子部は皆知っていました。
しかし、彼の話を私がすると、

「キヨちゃん、恋愛に流されてはダメよ。」といつも強く念を押されます。
「流されていません。彼は私にとって大切な人です。それが流されいるのですか?」
と私が言うと、女子部は
「それがもう彼根本の生活になっているってことじゃない!」となぜか怒りました。

「彼根本の生活」・・・・・・・

はっきり言って、彼氏が出来たら彼のことを強く思うのは
当たり前だと私は思います。現に私は活動もしっかりやっていたし、
やましいこともしていない、だから胸を張って付き合っていますと言えました。

しかし、私がいざ結婚を考えていると女子部に言うと、

「キヨちゃん、あなた今何歳?まだまだ若いじゃない!!
 キヨちゃんは結婚10年後ぐらいでいいじゃないの!!」

と根拠も無く勝手に10年後に結婚するように勧められました。
続いて、

「女子部のうちに一生懸命活動しないと幸せになれないわよ。
 今頑張って、そうすれば自ずと最高の相手と結婚できるから。」

と、もう結婚を視野に入れているのですが・・・と言っても聞いてくれません。
前にも書きましたが。「女子部のうちに」がわかりません。

例えば、今高校生で大学受験のために「今勉強すべきだ」というのはわかります。
しかし、信仰はそういうものではないと私は思うのです。
人に強要されてまでするものではないと思います。
もちろんアドバイスとしての相手の意見はちゃんと聞きます。
何事も否定されたからって頭から怒る事なんてしません、
しかし、そのアドバイスにはなんの説得力も感じられないのです。
人の婚期にまで色々言って、これは失礼だと私は思っています。

「相手を思って言っている」のでは決してなく、
「結婚したら大切な活動家が減る」のが嫌なのです。


実際に私は女子部が「○○さんが結婚したらこの地区の女子部は
やっていけませんよ!お願いですからまだ結婚しないでください!!」
と冗談ではなく本気で言っているのを見ました。

それに、「結婚するまでに自分の後任をしっかり育てる」のが
女子部が結婚するにあたって必要なようです。
そんな・・・皆に祝福されるのが結婚なのではないでしょうか。

結婚は一生のうちでとても大切なものです。
いくら相性が合っていたとしても、タイミングはとても大切だと思います。
「女子部にいることが、自分の婚期を遅れさせてしまっている」と
思っている方は実際多いようです。

でも考えてください。

結婚は、自分の人生をもっと幸せに生きる為の
ものではないのですか?


それなのに、なんでそれを押さえつけてまで結婚を伸ばそうって
皆言うのでしょうか。私には正直わかりません。
今結婚したら、不幸になるのでしょうか?それがわかるのですか?
なんだか占い師みたいです。

人が幸せになろうとしているのを遮るのは、非常にリスクを伴う事です。
あなたの一言が、その人の人生を大きく変えるかもしれないのです。
そこまであなたは、相手の人生に責任を持てるでしょうか。
人の幸せを遮ってまでなる幸せってなんなのでしょうか?

私は、結婚したいって思い、お互いがそういう気持ちなら
結婚はすべきだと思います。なぜなら「今」お互いのタイミングだと思うからです。

なので私は彼との付き合いも否定されましたが、
彼の為にもそこはしっかりと反論しました。

「今結婚すべきじゃないよ。」なんて、私は誰にも言えません。
なぜなら、私はそこまで相手の人生に干渉するのは危険だと思うからです。

私は自分の大切な彼を、
彼のことを知りもしない女子部に否定されました。


だからその時私は決めたのです。
私が学会から彼を守っていかなくてはいけないと。
私がその非難に立ち向かわないと、私が私を許せない気がしてならないのです。

今日は私の姉について話したいと思います。

姉は私よりも3歳年上で、幼い頃からとても仲のよい姉妹でした。
今姉は実家にいるため離れて暮らしているのですが、
私が帰ると、音楽の趣味が一緒なのでいろいろとオススメの曲をCDに焼いて
いてくれたりして、とても優しい姉だなと思っています。

姉は現在定職に就いていなく、いわゆるフリーターで実家にいます。
私が先に就職してしたので、母からはかなり嫌味を言われたと言っていました。
しかも私はかなりの活動家、姉は未活動でしたので、
実家にいる姉は相当居心地が悪かったと思います。

3ヶ月程前、姉と一緒に初めてお酒を飲みました。
こんなに仲良いのだから、飲んだ事ぐらいありそうですが、一回もなかったのです。

そこで私は姉に、自分が創価学会を精神的に止めたとはっきり伝えました。
姉は少し驚いた様子で、私にこう言いました。

「私ね、キヨが本当に凄いと思っていたんだ。私は大学卒業して、でもフリーターで、
 お母さんからは『キヨは実家から慣れて頑張っているのにあんたは』って、
 ずっと言われてたの。だから、実家から離れて、一人で活動も頑張って、
 仕事もちゃんとしてるキヨが、本当に凄いと思ったの。」

姉は、ずっと母に「キヨはちゃんとやっているのに」と言われていたそうです。
実際私も電話で母と話す時は、必ず学会活動のことは話していましたし、
私が真面目に活動しているのを聞いて母は嬉しかったのでしょう。
しかし、私が学会に対して少し反抗的な態度を取り始めたら、態度は一変しました。

母は私に、
「お姉ちゃんはキヨと違って本当に親孝行者だよ。あんな優しい子はいないよ。
 キヨは一体どうしちゃったのかね・・・前とは変わってしまった。」

と電話する度に言われていました。

これを姉と飲んでいる時に話したら、姉は

「確かに、お母さんは活動熱心だから、キヨが未活動になっちゃって
 すごく悲しんでたよ。でも、お母さんを責めちゃいけないよ。
 お母さんの本当の心をわかってあげられるのは、お父さんでも
 おばあちゃんでもおじいちゃんでもない、私たち子供なんだから。」

この言葉を聞いた時に、今迄ずっとお母さんに辛い事を言われていた姉なのに、
すごいなって心から思いました。私はお母さんを心の中で責めていたし、
活動熱心で私たちにあまりかまってくれなかったことも、母親として
どうかなって思ってました。そして今でも思わずにはいられません。

私は精神的に創価学会を止めました。
でも、これから創価学会のしがらみの中で生きて行かなくてはいけないのです。

姉は、

「しょうがないよ。私たちは、両親が創価学会だった。
 これは私たちととって、どうしようもない運命なんだよ。
 私たちは、普通の人とは違うものを背負って生きて行かなくてはいけないし、
 それを完全に取り除く事は無理だよ。なんか、悲しいけどさ。」

姉の言葉には説得力がありました。
この言葉を聞いた私は、自分が創価学会に生まれてしまった事、
この運命を受け入れて生きて行くしかないと思ったのです。
無宗教に生まれていたらなんて、考えるだけ時間の無駄だと。
私たちは与えられたこの運命のなかで、精一杯生きて行くことしかできないのだと。

でも、それを受け入れられたら、とても楽になりました。
もがいたってしょうがない、現に私はすごく幸せじゃないかって。
自分を否定して生きて行くのはとても辛いです。

学会員だった自分、学会を疑った自分、精神的に止めた自分

みんな私で、今の幸せを掴んだのも、この私です。
だから、「創価学会だった自分」を否定するのは止めました。
それは、私のことを好きになってくれた彼への気持ちでもあります。

私は幸せになれて、過去の自分が救われました。
だから皆さんにも、本当に幸せになってもらいたいです。

今日仕事から帰宅途中、電車の中で大白蓮華(学会の機関誌)を
熱心に読んでいる人がいました。
片手にはペンを持って、なにやら書き込んでいるようです。

私も同じような事してたな~と思い出しました。
(電車の中で読んだ事はありませんが)

熱心に大白蓮華を読んでいるのはおそらく外見からして女子部。
とてもきれいな方でした。これから会合なのかな?と思いました。

私も以前、仕事帰りに会合に直行していたことが何度もあります。
仕事でヘトヘト、でも行かなきゃ!!と自分を奮い起こして行っていました。
なんでこんなにも熱心に友達との約束を断ってまで会合に勤しんでいたのか。

考えると、一つの答えがみつかりました。
もちろんこの信心が正しいと思う心は前提にありましたが、

皆に頼りにされているから頑張らなきゃ!!

と思っていました。
現に私は女子部で役職もあり、役職を持たない女子部よりは
確実に会合数も多く活動家でした。
信仰心は大切、でも、それ以上に、

皆が会合で私を待っている
私が会合へいくと喜ぶ人がいる


これはとても大きかったと思います。
なので、役職が無かったら会合への参加意欲は薄れていたのではないでしょうか。

しかも、

こんなにも忙しい中参加している自分は信仰熱心だ!!

とも思いました。
確かに信仰熱心でしたしね。

こう考えると、日々日常で頼りにされない人が学会内で急に頼りにされると
「頼りにしてくれるんだ、嬉しいな、頑張らなきゃ!」という心理が芽生えるのは当然です。

私は今迄の人生の中で人前に立つことが多かったので、
役職の話が来た時は「またか・・・」という感じでした・・・
現に断りたかったですし(仕事が忙しかったので)
でも断ると福運が逃げちゃうよと言われたので渋々承諾しましたが、
いざ頼りにされると嬉しいもので、頑張ろうって気になりました。

でもよく考えると、断ったら逃げちゃうような福運、私いりません。
(福運ってそもそも、逃げるものなのだろうかという疑問もありますが)

上手い具合にできている創価学会。
人間の心理をとても上手く突いています。

今回は宗教とは何かについて、
ちょっと大きすぎるテーマですが私なりの意見を書きたいと思います。

そもそも、宗教ってどうして生まれたのか?
う~ん・・・難しい問題ですね。
私が考える宗教の起源(?)みたいなものは、
人間が知恵を身につけた時から存在したのではないか、と思っています。

人間(と呼べる種)は「考える」という最大の武器を持っています。
それも、「物凄く無駄なことを考えられる能力」です。
これって、物凄く不思議なことで、私は今だに何でかな?と苦悩します。

「私はなんで生きているのだろうか?」
「私はどこから生まれたのだろうか?」
「人間はなんで意識を持っているのだろうか?」


こんなこと考えたって、答えは見つかりません。
しかしそれでも、人間は「考える」のです。

もし、私達人間が本能のままに生きていたら、
上記のように考えたりはしないと思います。
人間には理性があり、知性があります。

そこで、知恵がついてきた私達は考えるのです。

「どうして人間って生まれたんだろ?
 死んだら私達はどうなるんだろう??」


こんなことわかるはず無いのに、考えます。

うわ~ん!!いくら考えてもわからないよ!!
誰か教えてよ!!ねえねえ!!


でもわからない。一体どうしようか?

そこで、神話や宗教が生まれるのです。

こじつけでも、何かのストーリーがあれば満足。
その話の信憑性なんて必要ありません。
そこで、この世界はこれこれこういう風にできているんですよ!
と誰かが言い始めます。

なるほど!!神様が創ったのね!!
よかった~・・・今までの苦悩が解消したよ!!


という感じに。

世界中で様々な宗教が生まれたのは、
人間が「生きる意味・意義」や「死後の世界」について
何か意味を求めたことから始まったと私は思います。
現に何十億人の人が、今現時点で宗教を信じています。
アリやセミに、宗教は存在しないと思います。(あくまで予測ですが)

「生きる意味」「死んだらどうなるのか?」

これらを求めたから宗教が生まれたのだと、私は思います。
しかもそれが、今の世の中を支配しているものとなってしまったのです。
人間の思い込みって、凄まじいと書きながら思いました。
あくまで私の仮説ですのが・・・

皆さんこんにちは!
今回の台風は凄いですね・・・
今でも暴風域の所はあると思いますので、充分に気を付けてください。

今日は昨日とちょっとかぶってるかもしれませんが、
学会員からよく言われる「学会から離れると地獄へ落ちる」
ということについて書きたいと思います。

私も様々な学会員から言われました。
親からも今だに言われ続けている一つです。

「地獄へ落ちる」

・・・・・・・なんと恐ろしい響き。

でも、地獄ってそもそもなんでしょうか?
さっそく調べてみました。

悪行を為した者の霊魂が、死後に送られ罰を受けるとされる世界。
仏教では六道の最下層。閻魔(えんま)の審判に基づいて様々な
責め、苦を受けるとされる世界。  (wikipedia参照)

どうやらとんでもなく辛そうです。
ではここで、仏教の六道について、簡単に説明します。

六道というのは、仏教での6つの世界観のことです。
生命をもったものは、死んでから生きていた時の罪の大きさによって
裁かれ、永遠にこの6つの世界をぐるぐる繰り返して生きていくとのこと。

地獄道・・・生前の罪を償わせるために存在する世界
餓鬼道・・・生前に贅沢をした者が行く気持ちが満たされない世界
畜生道・・・動物的本能のまま(欲求のまま)行動する世界
修羅道・・・終始武力をもった争いごとの絶えない世界
人間道・・・人間が住む世界、平常心の世界。
天道・・・苦しみも少なく、常に喜びを感じる世界

上から下になっていくほど、苦しみが軽減されるってことでしょうか。
地獄はこの中でも最高の苦しみを持つ世界です。
死んでから地獄へ行くなんてまっぴらですね。

地獄の中でもいろいろと苦しみのタイプがわかれていて、
超熱い鉄の縄で縛られ、その上熱い鉄の斧で切り裂かれる場所もあれば、
ぐつぐつ煮込んだ熱い釜の中に入れられたり、炎の部屋に入れられたり様々です。

いやあ~でも、一つ思ったことが、

人間のやっていることと一緒だな

ということです。
今までの歴史の中でそのような拷問や大量殺戮など
いくらでもあったし、地獄も人間界と一緒だなと思いました。
違いはそれがすっと長い間続くか、すぐ死んでしまうかだけです。

でも、どうしても疑問が消えません・・・
このような世界があると言われていますが、

一体誰が見てこの人間界に伝えたのでしょうか

要するに、この6つの世界にそれぞれ行った人がいて、
人間界に帰ってきて伝えた、ということですよね。
でも、この6つの世界は生まれ変わったら覚えていないという
設定にもなっています。う~ん・・・矛盾。

それも、たった一人が特殊な力を持っていて、
「私は地獄界を体験した!!」と言ったとしても、
そんなこと言ってる人がいたとしたらただの異常者とみられてしまうでしょう。
生まれ変わってきた人の大多数がそう言っていればいいのですが、
不運にも私の周りではそのような体験をした人はいません。

あまりにも神話的要素が強すぎて、信じられないのです。

でも、「悪いことしたら地獄へ落ちる!だからやめよう!」と
警察に捕まることを恐れているのではなく、
地獄を心から恐れて人殺しとかを止める人がいたとしたら、
この世界観も役に立っているのでしょうか。

私は根拠もないことを言う人が苦手です。
それも、「地獄へ落ちる」なんて・・・・結構酷いです。

皆さんこんにちは!
台風が直撃とのことですが、皆さんは大丈夫でしょうか?

今日のテーマは「仏罰は果たして存在するのか」です。

結論から言いましょう。

仏罰は自分の主観によって引き起こされるもの

です。
最初に言っておきますが、私は神的な人間を超越した存在
を見たことが無いので、「神は絶対にいない!」とは断言しません。
しかし、「神はいないであろう」と考えています。

あれ?じゃあ、キヨは
仏罰は自分の主観によって引き起こされるもの
って言っているけれど、引き起こされるってことはあるってこと?
と思った方、私は仏罰なんてナンセンスだと思っています。

仏罰、いわゆる悪いことをすると、どこかで仏様が見ていて
「ああ~この人は悪いことをしている!罰を下さなきゃ!」
という感じにその人自身に「不幸」を与える。

とこんな感じでしょうか。

前の記事の「私の考える神様とは」でも書きましたが、
それって結局、

仏様の主観的な考え方で仏罰を下している

ということになってしまいます。
仏様が考える「悪いことの基準」は、果たして正しいのか?

そんなこと、個人個人の主観の問題でしょ?

と私は思います。
だからもしこの世界に仏様がいて、その仏様が私達に
仏罰を下しているとしたら、私はこう思います。

あなたの主観的思考で善悪を決められて、
その上仏罰を下されて本当に迷惑極まりない!!


ということです。

それか、仏様には特殊な力があって、
仏様の目には「悪い心」が人間の中にどす黒く渦巻いているのが
視覚的に見えるとしても、「悪の基準」なんて時代によって変わるので
結局仏様の主観じゃん!と私は思います。

なので、
仏罰だ~!!と嘆くのは、結局自分個人の判断であって、

仏罰だと思わなければ仏罰ではない

こいうことです。

それに、もし仏罰を信じているそこのあなた、
あなたがもし、物を盗まない性格だとしましょう。
「物を盗むのは悪いことだ!」と思っているからです。
では、なぜあなたは物を盗まないのですか?

「仏罰」を恐れているからですか?
それとも、
「警察に捕まる」のを恐れているのですか?


人間によって下される罰を恐れているのだとしたら、
あなたは本質的に「仏罰」なんて信じていないのです。

人は人間を殺してから、一体何人が「仏罰が下る」と最初に悩めるでしょうか。
普通の思考なら、まず「警察に捕まってしまう」と焦るでしょう。
本質的なものとは、そういうものです。

※誤解を招く恐れがあるので追記します(2007/11/15)
 ここで言う「物質」とは、いわゆる「人間が作り出したもの」
 という「概念」を含む大きな意味で捉えております。
 空間をある一定の質量で満たす、という物質に限定して
 書いていないので、予めご了承願います。
 記事を修正しようかと思ったのですが、コメントもしてくださって
 いる方のためにも残したいと思います。
 かなり読みにくい文章で申し訳ないです(>_<;)

仏教用語の中に、
「相対的幸福」と「絶対的幸福」があります。
これは創価学会の教えにもあるのですが、
私は青年教学試験を受けた時に覚えた記憶があります。

相対的幸福=あの世に持っていけない物質的な幸福
         (財産や権力や名声など)
絶対的幸福=相対的幸福に左右されず、常に幸福感が持続する状態
         (常に生きるのが楽しいなど)

私が学んだ範囲では、学会は相対的幸福よりも、絶対的幸福を
目指しているのだそうです。

地位や名誉や財産は一時的なもので、それは見かけ上の幸福でしかない。
無くなってしまえばすぐに不幸になるという、常に不幸と隣り合わせの幸福であり、
一方常に幸福な状態が継続すれば、それは不幸と隣り合わせにある
物質的な幸福ではないので(時間と共に薄れない)最高に幸せじゃないか、
という考え方です。

確かに、自分が常に幸福な状態で生きていければ最高です。
恋人に振られても、両親が死んでも、考え方を変えて良い方向に
転換できるのならば、自分は不幸にならないのですから。

その上で、こう教えられています。

相対的幸福は、自分の幸福を違う誰か(物)に委ねている。
これは不幸なことではないか。
絶対的幸福は、常に前向きに生きていけるような境涯をいう。
これは周りの環境には左右されない。
この幸福を手に入れるためには「信心」しかないのだ。

だそうです。

物質的な幸福が果たして不幸でしょうか?
地位や名誉、財産は果たして不幸なことなのでしょうか?
仮に不幸なことだとして、ではなぜ、池田大作氏はあんなにも
自分が海外から顕彰されたことを、聖教新聞や本部幹部会で大々的に
報道しているのでしょうか。

ただ、私が考えているのは、

「周りの環境に左右されない幸福(絶対的幸福)」
など果たしてありえるのだろうか


ということです。

生まれた時から脳に特殊な機能を取り付けたり、
またはそのように幸福に感じる薬でも打たない限り、
人間の幸福なんて、99.9%周りの環境に左右されると思います。

自分がテストで満点取れば嬉しいし、
恋人に告白して成功すれば嬉しいし、
就職先で昇進して給料がアップすれば嬉しい。。

自分の幸福なんて、物質的に満足できれば幸せだと私は思います。

しかしよくある昼間のドラマのように、
「私には財産も名誉も美貌もある、だけど幸せじゃないのよお~!」
と言っている人。それを見て、
「ああ~・・・やっぱり物質的な物で幸せは決まらないんだなあ。」
と思っているあなた。
最終的に本当の愛とか友情とかを見つけて幸せになるセレブ(?)。

大好きな人(物質)がいることによって得られる幸福も、物質的幸福です。
愛なんてものは、その物質の中から見出される感覚的なものです。
(結局物質的なものによって満たされてるじゃん!と私は思うのですが・・・)

「常に前向きに楽しく生きる」これはとても良いことだと思います。
そのためには絶対的幸福が必要である、これも理屈はわかりました。

が、しかし、いつまでも疑問に残ることがあります。

絶対的幸福を、物質的なものによる幸福は幸福ではない
絶対的幸福は、「信仰」によってのみ得られるものである


と仮定するのであれば、

宗教という物質的なものから生まれる幸福も、
絶対的幸福ではない


と言えるのではないでしょうか。

宗教は物質ではないよ!と言う人がいますが、
宗教が人間が作り出したものだとしたら完璧な「物質」です。
それが感覚によってのみとらえられる存在か、それとも物理的に
見て触れられる存在かのどちらかです。

では、もう少しわかり易くいいましょう。

「権力」「名声」、これは物質でしょうか?
相対的幸福の定義の中では物質だと捉えていますね。
(私も物質だと考えています。)
だとすると、
「目には見えない=物質ではない」という定義は崩れます。

「目に見える物質」もあれば「目に見えない物質」もあるということです。
概念などが良い例ですね。概念は目に見えないけれど、
数えることもできるし一種の物として捉えられています。

そして、
「この信仰によって幸せになれる!!」というセリフは
「この本を買ったら幸せになれる!!」と同じように思えます。

要は心の問題なわけで、その対象を非物質的ものとして
捉えるか捉えないかの個人個人の感覚の違いなのです。

祈ること(物理的活動)によって絶対的幸福が手に入る。
日々何事にも挑戦すること(物理的活動)によって絶対的幸福が手に入る。

そして、「周りの環境に左右されない幸福(絶対的幸福)」、
絶対的幸福は、周りの環境に「絶対に」左右されないのです。
ということは、自分の周りの環境が「無」だとしても幸福である、
ということです。いやむしろ、「周りの環境が無」ではないと
成り立たない幸福であるように思えます。
だって、「環境のある」生活をしているのに、
「あなたは周りの環境ににされないね」なんて、どうやって判断するのでしょうか?
3次元の世界に住んでいる人間が、8次元の世界を想像できないのと一緒です。

宗教も名誉も財産も無い、「無」の中で
「なぜだかわからないけれど湧き上がってくる幸福」
こそが、「環境に左右されない」幸福なのではないでしょうか。

しかし、そんな環境人間には体験できないし、
なにより現実不可能なことなので、考えるだけ無駄なのですが・・・

※この私の考え方が根本的に間違っているのだとしたら、ご指摘願います。
書いていて頭痛くなってしまったので、訳わからないこと言っていたら
すみません。

これを読んでいる学会員の皆さんの中に、
こう思っている方いませんか?

創価学会に関するインターネットの情報は、
ほとんど嘘でデマカセを言っている

私はインターネットをかなり頻繁に利用します。
生活の一部と言っても過言ではありません。
なので「創価学会」と検索したこともかなりありますし、
どのようなこHPがあるのかも大体は把握しているつもりです。

しかし私がまだ活動家だった頃は、今程ネットは利用してなかったにせよ
「創価学会」なんて検索したことはほとんどありませんでした。
なぜなら、母親からいつも

インターネットに書かれている創価学会の批判は全部
ニセモノでデタラメばかりだから、信じてはいけない

と何度も言われてきたからです。

しかも、学会批判をしているHPを見ると心が痛くなる。
なんだか学会批判を自分がしているかのように
「このHPを見るとなんだか学会に対して悪い気がする」
と思っていました。

だから、彼が2ちゃんねるなどで創価学会のスレッドを読んでいるのを知ると、

「なんでそんな批判しか書いてないもの見るの?
 そういうのは、全部デタラメだし本当のことなんて書いてないよ!」

と説得力のカケラもない事を言っていました。

『なんでそんな批判しか書いてないもの見るの?』
と言いましたが、


彼は「批判しか書いていないもの」を
わざわざ選んで読んでいるわけではないのです。

「学会関連の話は、批判が多いだけ」

それだけなのです。

例え「ネット上の創価学会関連の話がデタラメ」
であっても、
「ネット上には創価学会関連の批判が非常に多い」
ことを認めなくてはいけません。


インターネットは情報の塊です。
もしあなたがネット上の情報を「信じる」のなら、どの情報が正しいか、
本当に自分にとって有益かを考えて信じなくてはいけません。
なので、あなたが信じない自由もあるし、信じる自由もある。
それだけを切り取ると、とても公平な場所だと私は思います。

しかし、ソースに信憑性がある情報を信じるのはいいのですが、
ソースに信憑性がない情報を一方的に信じるのはどうかと思います。

私は母から、

『インターネットに書かれている創価学会の批判は全部
ニセモノでデタラメばかりだから、信じてはいけない』

という情報をもらいました。
しかしここで確認しなくてはいけないのはこの情報の信憑性です。
母はインターネットをほとんど(年に2~3回の使用頻度)
使用していません。果たしてこの情報には信憑性があるでしょうか。

インターネットを滅多に使わない人が、
インターネットの中の情報について私に言っている。

これは、

ゴルフを滅多にしない人が、
とあるゴルフ場の芝生の状態について話しているようなものです。

要するに、「使っていない・やっていないあなたが、なんで知ってるの?」
ということなのです。

「信憑性とか情報とかいろいろうるさいな~この人は・・・」
と思われるかもしれませんが、

情報を信じるということは、
その人にとって物凄く有益になることもあればその反対もあります。
なので、信憑性を疑うことはとても大切なことなのです。

あなたが何か家電製品を買おうとした時に、
お店の店員さんのセールストークだけを信じて買いますか?
中にはそういう人もいるかと思いますが、大きな買い物です。
私なら店員のセールストークよりも、
インターネットでその家電のレビューを検索します。
もちろん一つのサイトだけを参考にするのではなく、
複数(自分が見れる限り)調べて参考にします。

ここで良い評判が一般人からたくさん出ていたら買いますし、
使いにくいという評判がたくさん出ていたら買うかはわかりません。
(おそらく買わないでしょう。)

このように、結局は本人の「信じるか信じないか」で決まるのですが、
インターネットほどリアルタイムに一般人の声が聞ける場所はないと思います。
このブログも、いわゆる一般人の声ですし、あくまで情報の提供にすぎません。

そこから何かを取り出して自分にとって有益なものにできるか

それが重要であって、インターネットの醍醐味ではないでしょうか。

「自分が正しい」と思うことは自由です。
「インターネットに書かれている創価学会の批判は全部
ニセモノでデタラメばかりだから、信じてはいけない」
と思うことも自由です。

しかし、自分の目で確かめないで決め付けるのは間違っています。

「自分が創価学会を信じているからネットの批判は信じない」
という理屈は、少なくとも無宗教の人には理解できないでしょう。
「信じてはいけない」とはっきり断言できるのならば、
「何がどう間違っているのか」を断言できなくては説得力が生まれないのです。

私の両親は、父は母と結婚した時に入信したらしいので、
どちらかというと母のほうが信仰熱心です。
地区婦人部長をやっているので、「かなり」活動熱心だと思います。

私は、その信仰によって気持ちが救われることは
(お祈りして気持ちが落ち着くなど)とても良いことだと思います。
祈ることによって日々頑張れる、生きる喜びが生まれる、
そういう信仰ならその人の人生を豊かにしているのですから、
否定は絶対にしません。

現に私も、自分が大好きな音楽を聴くと気持ちが安らぎます。
ライブへ行くと元気が「超」出ます。
私の人生から音楽を取ってしまったら、私の人生は
とても面白みの無い、味気ないものになってしまうと思うのです。

しかし音楽をいくら好きでも、ライブに行き過ぎて体調を崩したり、
お金が無くなって借金したり(かなり極端ですが)したら
それこそ本末転倒です。人生を豊かにする一種の手段なのに、
逆にそれによって人生を追い込まれたら私は嫌です。
音楽を好きでい続けるためにも、適度な距離が必要なのです。

もちろん、その道のスペシャリストとして生きていく覚悟があるのなら、
それに命を掛けてもいいのなら、距離なんて必要ありません。

宗教もそうだと思うのです。私の自論ですが、
家庭崩壊させてまでお金の寄付をする必要はありません。
体調を崩してまで、会合に出席する必要はありません。
友達に嫌われてまで、折伏する必要もありません。
家庭を大切にできない人が、他人の幸せを祈れるわけがないと思っています。

私は幼い時から活動熱心な母の姿を見てきました。
それは立派なことだと思っていました。
例え私や姉が寂しい思いをしたって、
それは「広宣流布」には必要な「寂しさ」だったからです。

近所の学会員のお母さんには
「キヨちゃんのお母さんにはいつもお世話になっているよ。」
と言われましたし、
「キヨちゃんのお母さん、凄い頑張っているんだね、私も頑張らなくちゃ。」
と何回も言われました。

お母さんは頑張っているんだ、人に勇気を与えてるんだ!!

とその思いだけが、寂しさを和らげる手段でした。
私が活動家だった頃も、お母さんが話す内容はいつも「創価学会」。
「池田先生がいつまで最前線で指揮をとって下さるかわからない。
 だから私達は先生にお応えするために頑張らなきゃ!!」
といつも言っていました。

夕飯時にはいつもお母さんはいない。
休日ももちろんいない。

だから、たまにお母さんと一緒にデパートに買い物に行くと、
「これ買ってあげようか?」と言われても、
「いいよいいよ。」と遠慮しました。
休日に一緒に出かけることなんてあまりないし、
買ってもらうのはなんだかすごい悪い気がして、
それに、デパートで「創価学会」をあまり話さないお母さんが
なんだかとても変で、でもなんだか嬉しくて、それだけで充分でした。
なので小さい頃は今以上に物欲が無く、趣味が「貯金」でした・・・

今は、私は自分の子供に私と同じ思いはさせたくない
と思っています。私みたいな思いをするのは、私だけで充分です。
私の子供にまで、同じ思いをさせる必要なんて全くありません。

私が幼い頃感じていたあの寂しさは、
まぎれもない「寂しさ」だったからです。
それは今でも埋まることは無く、心に残っています。

だた普通に、家庭円満で暮らしていければ、
みんな揃って食卓を囲めたら、
創価学会の話ばかりの会話じゃなければ、
お母さんの手作りのお弁当を食べていられたら、

私はもう少し、変わっていたんじゃないかな、と思っています。

最近彼の仕事が忙しいせいか、とても疲れているように見えます。
一緒に暮らしていると、ほんの少しの仕草で相手が
自分に何を求めているのかがわかってきます。

彼は平凡な幸せを望み、波乱万丈な人生は望んでいません。
「毎日を何事にも勝利していこう!!」などとは思っていないでしょう。
疲れたら休めばいいし、甘えてもいい。
愚痴を言いたければ言ってもいいし、我慢することは何もありません。

私は彼と一緒に生きている上で、とても支えられているし
自分も彼を支えているとも思います。
なので比較的仕事が早く終わる私は、お互い節約し
将来のために貯金しているので、できるだけ自炊し、お弁当も作ります。
彼が気持ち良く仕事できるのならアイロンがけだってするし、
掃除・洗濯だってすすんでします。

彼が疲れていたら優しい言葉をかけてあげたいし、
彼が今大変なら私はそれを全力で支えていってあげたい。
それは、彼が本当に大切な存在だからです。
その変わり、私が大変な時は支えてもらいたい。

これって、恋人間で生まれるごく自然な気持ちですよね?

相手が大切だから、相手を思いやって行動する。
これはお互いが一緒に生活する上でとても大切なことです。

しかし、私が創価学会だったらどうでしょうか。
彼が帰ってくれば私は会合へ行っている。
会合へ行くのならば夕飯を作る暇もありません。

貴重な休日も朝からいない。
彼が悩んでいる時に優しい言葉をかけたとしても、
結局は「彼が元気になりますように」と祈ることが一番
彼のためだと思っている。

そして創価学会のことを少しでも分かってもらいたくて、
一生懸命彼に学会の素晴らしさを語る。
彼は迷惑がっているのに、でもそれは彼のためだから
仕方のないことだと思い止めない。

そしてこの二人の幸せは、
「私が創価学会に入って真剣に信仰しているからあるんだ」
と考えてしまう。そして、
「彼が信心すればもっと幸せになれるのに・・・」
と本気で悩む。

本気で悩んでいたらそれが彼に伝わる。
彼は私が苦悩している顔でお題目をあげているのを側で見る。

果たしてこれは、本当に彼のことを思いやっている行動でしょうか?

彼は絶対に、私が御本尊に「彼が元気になりますように」と祈るよりも、
その私が祈っている時間、
「どうしたの?元気ないね。悩みがあるらなんでも聞くよ。」
と言って悩みを聞いてもらう方が、遥かに助けになると思っているでしょう。

真の優しさとは、相手の立場になって考えられることです。

優しさとはそういうものだと、私は思っています。

皆さんこんにちは。
日々このブログにお越しくださる人が増えてきているのを見て、
「創価学会」というキーワードがどんどん注目されてきている
ということを感じます。特に恋人が学会で悩みを持っている、
または自分が学会で反対されて困っている、という人が多いのだと思います。
それだけ考えなくてはならない問題だと痛感します。

先日、私の方から彼に聞いてみました。
「なんで私が創価学会を止められる素質があるって思ったの?」と。

そしたら彼はすぐ、
「だって、俺と趣味が本当によく合うんだもん。
 俺は無宗教な色合いが強いし、そういう神様的なものも信じない。
 こんな俺とここまで価値観が合うのに止められないのはおかしいでしょ?」

と説得力があるのか無いのかわからないことを言いました。
そして続いて、

「俺はキヨと話してみて、キヨの創価学会に対する知識とか根拠とか
 を聞いた上で思ったんだよ。絶対に論破できるって。
 キヨはあまりにも学会に対する知識がなかった。俺もなかったけど、
 矛盾点を突かれるといつもキヨは黙っちゃったでしょ?
 『だって正しいと思ってるんだもん』ぐらいにしか言えなかったし。」

そうなんです、前にも書きましたが、私はあまりにも知識が無かった。
法華経に対する知識も、創価学会に対する知識も。
なので簡単に論破されてしまったのです。

確かに、信仰を持つ上で知識はそんなに重要なことではないと
言う人もいるかもしれません。「信じて救われるのに理由はいらない」と。
「理由はないけどこのバンドの音楽がとても好き」というのと一緒ですね。

しかし、音楽を例にあげると
「自分の好きな音楽を人に無理矢理薦める」
「自分の好きな音楽が一番良いと考えて他の音楽を全部否定する」
など、こんな風な考えを持った友達がもし私にいたら、
音楽大好きな私にとっては前者は許せるものの
(音楽は気軽に聴けるため)後者の性格の人を好きにはなれません。

これが音楽ならまだいいのですが、「選挙活動」や「折伏」となってきたら
話は全く違ってきます。「ただ単に自分が良いと思っているから」
強烈に「選挙活動」や「折伏」をされたら迷惑極まりないことです。
選挙を例に上げると、将来日本を背負っていく重要な議員を
選ぶのです。これを「じゃあなぜこの党がいいの?」と聞かれたときに
パンフレットに載っていることしか答えられないようでは、
説得力のかけらもありません。

「なんで公明党を支援するの?」
「共産党・民主党のどこが悪いの?」

これを明確に答えられなくて選挙活動をしている学会員が多すぎます。
ただ単に「創価学会が支援しているから」と言ったら
(さすがに実際言葉に出す人はいないと思いますが)
その人は「公明党」が良いのではなくて、「創価学会」が良いだけにすぎません。

「創価学会だから公明党を支持してるんじゃないよ!
 ちゃんとマニフェストを読んで話を聞いて応援しているんだよ!」

と言ったとします。
しかしこの言葉は正しいとしたら、学会員のあなたは

自分が創価学会員ではなくても公明党を応援している

ということになります。
ではあなたは胸を張って

私は創価学会員でなかったとしても
公明党を応援しています!!


と本気で言えるでしょうか?

ここで、「そんな仮の話わからないよ!!」
と言う学会員の方がいたとしましょう。しかしそれは、

自分が学会員だから公明党を応援している
と言っているも同然なのです


だってそれは、「創価学会」というベースがある上で
自分は「公明党に投票している」ということだからです。
自分が創価学会ではない場合「公明党に投票している」自分は
想像しにくいといっているのですから。

選挙は自分で考え、自分で決めて投票するものです。
しかし学会員が「共産党・民主党に投票した」と他の学会員に言ったら、

「何考えてるの!!??なんで公明党に入れなかったの!!??」
と言われるのが目に見えています。

素直に、
「今回は民主党が良いと思って自分で考えて決めたのです。」
「うん、選挙は自分で考えて投票するものだからね。」
なんて会話は創価学会の中では成り立ちません。

それがおかしいのです。
「自分で考える自由」がない選挙なんて、矛盾しています。

今までの歴史の中で、参政権というものは
「自分達もここで生きて納税している以上、投票する権利はある!!」
とお金持ちしか投票できないおかしな世の中に対抗した結果得られた
「自由な権利」なのですから。

こんにちは、キヨです。 周りから様々な影響を受けて無宗教になりました。 このブログは、恋人や知人が創価学会で苦悩している 人と学会の方々にあてたブログです。 記事はあまり順番を気にして書いていないので、好きなタイトルからご自由にお読みください。リンクはご自由にして頂いて結構ですが、その際コメント欄で教えて下さいね。

キヨ

Author:キヨ
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